青井史『月の食卓』(短歌新聞社 1994年)
秋の空がきれいだ。暑すぎた今年の夏、外を歩くときには、陽射しから逃れるようにうなだれて歩いていた。空を見上げるどころではなかった。だからだろうか、一段と美しく思える。大変なスピードで秋が駆け抜け、あっという間に冬になってしまいそうな予感も、いっそう、秋空を美しく思わせているのかもしれない。
十一月の空がとてもきれいだったのだ。「どこまでも青」 その「青」が脳裏にぱあーっと浮かぶ。空は広がり、心も広がり。とても気持ちがいい。陽射しも暖かい。すると、思われてくる、これはもう「洗濯日和」だと。
もう少し経てば、部屋干しの割合がぐっと増えてくるだろう。雪も降るし、氷点下に洗濯物が凍ることもあるから。だが、今日であれば思いっきり干せそうだ。
十一月の洗濯日和は、例えば、五月や八月のそれとは違う。この外干しのチャンスを逃さぬように、おひさまに当てられるものはなるべく当てておきたい、そういう、けなげな気持ちがどこかに働く「洗濯日和」なのだ。また、今年の内に身の回りをきちんと整えてしまいたい、そういう、一年を締めくくる思いのある「洗濯日和」なのだ。
そしてそんな晴天は、もっと大きなものを洗うことを想像させた。「ヨット一艘丸ごと」、スケールが大きい。艇体にぶつかって飛び散る水しぶきや、白い帆がたわむ様子を思い浮かべると、わくわくする。
が、実際に洗うのか、洗えるのかというと、それは結構難しそう。リアルな状況と取れなくはないけれど。想像の大きさ。それほどに、心が弾んでいるということだろう。
そのヨットは、ここしばらくの汚れを付着させている。薄汚れている。こびりついているものもある。それを洗う。真っ白にする。生まれ変わるようだ。
青と白。これは、夏にふさわしい色の配合だが、「十一月」の中に置かれた時、繊細な清らかさが生じてくる。前面に太々と出てくる色ではなくて、透明感を持った、秋のはかなさが織り込まれたものとして現れてくるのだ。
そして、「どこまでも」という言葉は、「ヨット」と関わり合う。甦ったヨットは、すーっと滑っていきたくなるだろう、青い空を、どこまでも。ヨットの航路が、幻のように見える歌でもあるのだ。
洗濯日和。できる時にできることを。今年もあと、一月半である。