ハムカツにしょうゆを垂らす舌にもうざっくりとした食感がくる

山階基『夜を着こなせたなら』短歌研究社,2023年

ハムカツが動かないなと思う。
四音のカツやフライならコロッケやトンカツ、海老カツがあるし、助詞を抜くなり字余りにするなりすれば(場合によってはしょうゆをソースにかえた方がよいかもしれないけど)、アジフライやメンチカツ、イカフライ、牡蠣フライでも大丈夫だし、実際にこれらを代入しても一首は成立する。成立はするのだけど、ハムカツからはじまる一首を見たあとでは、それらの代替案の物足りない印象は拭えない。

「ざっくりとした食感がくる」という下句とのハムカツの相性が抜群だ。下句はカツの衣に焦点が合っているのだけど、トンカツや牡蠣フライだと衣よりも具に照準が合ってしまう気がする。それ以外のフライやカツでもそうだ。ハムカツのもつチープさが、衣に焦点を当てるのを要請するような気がする。

「もう」が三句目に食い込んでいて、アウフタクトのように食い気味に「ざっくりとした食感」が提示される。垂らされた醤油が衣に触れて、熱々のハムカツの衣が読者にも感じられる。かけられるのがソースではなく醤油なのも、「ざっくりとした食感」を導くように思う。「しょうゆ」が平仮名表記なのも、ソースとは異なる醤油の粘度の低さを感じさせる。二句切れの一首だが、「垂らす」と「舌」は言葉としてかなり距離が近く、景の切り替わりのはっきりとした句切れなのに、妙に滑らかに接続されていて(垂らすの終止形と連体形が同形なのもあるだろうが)、舌がこれから感じるであろう食感を明瞭に暗示していると思う。

何よりも、美味しそうだ。
ハムカツは、美味い。

食パンの焦げたところを削るにはこそばゆい音立てるほかなく/山階基『夜を着こなせたなら』
海老の尾をくわえ見ていた天つゆに油が油を押しのけるのを
あとはどう皿を見事に汚すのかサウザンド・アイランド・ドレッシング
まっさらな雪をすくった跡のようあなたは炊飯器をまぜない/山階基『風にあたる』
手羽先にやはり両手があることを骨にしながら濡れていく指

山階さんの飲食の歌、特に一首をすべて飲食の描写に費やした歌は絶妙な場面が切り取られているように思う。焦げた食パンを削る瞬間も海老天の油が天つゆに浮かぶ様子も経験したことがある。サウザンド・アイランド・ドレッシングをかけたサラダを食べ終えた白い皿は独特の汚れ方をしているし、炊飯器で炊いたご飯を混ぜない人は存在するだろうし、手羽先には両手があるし食べれば指は濡れるだろう。

これらは、ハムカツに醤油をかける場面同様に、日常における些事に過ぎない。日常はそんな些事の積み重ねで、些事のひとつひとつはあっという間に忘れていく。ただ、このように細やかな修辞によって一首に仕立てられる事で、些事は輝きを帯びる。一首を読むことで、そのような瞬間が日常にあったと思い出す。

そして、これらの輝きを帯びた些事を読んでいくのは、とても楽しい行為だと思うのだ。

コピー機のためにお金をくずしたら涼しい夜はおでんのがんも/山階基『夜を着こなせたなら』

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です