鳩の胸まろきをみれば鳩たちは一つの鋳型より造られる

杉崎恒夫『パン屋のパンセ』(六花書林、2010

群れて遊ぶ鳩を見るうち、唐突にそのことに気づいてしまった。鋳型で鳩を作るという空想には、創造主の営為に触れるような驚きがあったのだろうか。この歌集には「鳩サブレー」という一連もあって、

こわれやすい鳩サブレーには微量なる添加物として鳩のたましい

といった歌が目につく。鳩サブレーとは、考えてみれば型でつくられる鳩である。掲出歌において、作者が詠んでいるのが生きている生身の鳩であることはまちがいないのだが、「一つの鋳型より造られる」という空想が語られた時点で、この鳩たちはやや鳩サブレー化していると言える。一方で「こわれやすい鳩サブレー」のほうには、「鳩のたましい」が添加され、こちらはいくらか生身の鳩に近づくことになる。つまりここでおこなわれているのは、鳩の鳩サブレー化と、鳩サブレーの鳩化。

『パン屋のパンセ』という一冊の遺歌集には、個性豊かな非人間たちが登場し、ひそやかな祝祭感さえもが醸し出される一方、生身の人の気配はいつも稀薄である。この歌集では往々にしてモノと生き物と人間があいまいに混合され、それぞれの中間にいるキャラクターたちと、主人公は親しく心を通わせる。

こんにちわ おなじ書棚にいつもある市民図書館のガルシア=マルケス
バレリーナみたいに脚をからませてガガンボのこんな軽い死にかた
目の前を時計回りにめぐりいるもと回遊魚のまぐろのにぎり
雨の夜のポストに会って来たことがたった一つのアリバイとなる

一首目において主体がガルシア=マルケスと呼び「こんにちわ」とマメにあいさつするのは、決して文学者その人ではなく、図書館の一冊の蔵書にすぎない。二・三首目における、ガガンボの死骸やまぐろの寿司は、すでに生命を手放した残骸であるが、主体はこれをよみがえらせる、というよりも別の生命としてつくりあげる。主人公によって常にあたたかなまなざしを与えられながら、ガガンボやまぐろの本来の生命は行方不明のままという不思議な感触がこれらの歌にはある。独特のにぎやかさの裏で、人の気配も、生命の気配も薄まっていく。つまりこれが、杉崎の〈さみしさ〉の表現ということになろうかと思う。

どうしても消去できない悲しみの隠しファイルが一個あります

ついには自身の心の一角をも、「ファイル」と非人間化する主人公がいる。しかし、消去できないのは、それがまぎれもなく人として生きた記憶の一部だからだろう。

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