駆け引きの上手な海を見ならえばラブホから出てくる人の距離感

上篠翔『エモーショナルきりん大全』(書肆侃侃房、2021

ラブホテルから出てくるカップル特有の距離の取り方というのが、たしかにあるような気がする。いちゃつきながらくっついて、つまり距離感ゼロで出てくるのかといえばそうではない。ふたりきりの一室から、不特定多数の視線のある街中へ出ていくその過程で、恋人どうしのあいだに取り繕いの距離感とでもいうべきものが見えるようになる。この歌の主体のように敏感な心の持ち主に目撃されたとき、親密さをごまかすためのその「距離感」は、むしろ親密さの証拠にもなる。

恋人同士であるということは(婚姻関係でも不倫でもいいけれど)、つまりこの取り繕いの感覚を共有し続けることであったようにも思う。実のところこれは、ラブホから出るときに初めて生じるわけではない。恋人たちが胸の中にいつも守っている小さな火であり、機会があればトーチに点火するようにいくらか大きな炎にして、自分たちにも、ときには周囲にも、よく見えるようにかざす。そんな火を始終持ち続けることが、恋愛というもののあたたかさだった。

いちばんセックスした人になろう膨らもう飛んでいけないふうせんわれる
どうでもいい人に抱かれてただ愛といってしまえた傷は花束
ぼくたちは百回セックスできたかなあーあああーあ焼けろかみなり

『エモーショナルきりん大全』の、特に初めの方にはセックスの歌がいくつか出てきて、そのどれもがおもしろくて印象に残る。この歌集においてそれはたいてい、軽いパニックのような状態の中で言及されるのだが、一首目のように相手にとっての「いちばんセックスした人」であることにこだわったり、三首目のようにことさら回数に言及するとき、この主体たちは小さな火を胸にしまうような恋愛の在り方を拒絶しているのではないか。テンションばかりの高い、乾いた関係に、親しもうとしているのではないか。

一方で、二首目の主体は「ただ愛といってしまえた」と愛とセックスへの単純すぎる把握を過去形で語っている。もうそこからは抜け出したというわけだ。あるいは掲出歌にもラブホから出てくる男女の「距離感」にずるずると学ばされてしまうような感触があった。結局のところこれは、大人になるか、つまり世間なみにうまく生きこなすのか、あるいはそんな上手な生き方は拒絶し、本当の自分を追求し続けるのかという問題でもある。

Don’t trust over thirty 日本にも人にもソニー・タイマーひそむ
しあわせになっちゃいけない気がしてる脱臼気味の秋のまんなか
ぼくたちに性欲なんていらないね拡声器のない夜と夜との

『エモーショナルきりん大全』では、中盤からセックスについてはあまり語られなくなり、終盤ではこんな歌が出てくる。この歌集の主人公は、最終的にラブホから絶妙の距離感で出てくるふたりのような、上手であたたかい生き方を受け入れたのだろうか。とにかく逃げようとしているように、私には見える。しあわせになっちゃいけない、性欲なんていらない。そうこうするうち、胸に隠されているソニー・タイマーの残り時間が、確実にゼロへと近づいてゆく。

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