窓外にポップコーンのやうな雪降ると誌せりNさんの葉書

高野公彦『水苑』(砂子屋書房、2000)

卵もて食卓を打つ朝の音ひそやかに我はわがいのち継ぐ

と、1982年の第二歌集『淡青』で詠んでいた高野公彦は、十八年後の第九歌集『水苑』において、今度はこんなふうにうたっている。

卓上の朝の真白きゆでたまごわれを照らせり新学期けふ

『水苑』にさきだつ第八歌集『天泣』(短歌研究社、1996)のあとがきで、作者は「平成五年三月、ながらく勤めた出版社をやめて自由の身となつたが、その後全く予想もしなかつた成り行きで翌年四月から青山学院女子短大の国文科の教師となつた」と記している。その、全く予想だにせず作者の人生に登場することになった女子学生たちが、このころの歌集では存在感を放っている。掲出歌は「授業」という短大での授業風景を詠んだ一連の、最初の歌。ゆえにNさんというのも短大の教え子と思われる。

掲出歌のおもしろさは、ひとことでいえば無責任というところだろう。東京の雪というのは、ひとつひとつがいびつな塊として、たしかにポップコーンのように降る。北海道の粉雪などとはそこが違う。積もることはあまりないから、気楽な立場からいえばそのたびにがっかりするが、いざとなるとそれこそポップコーンメーカーからあふれ出るようで、見る者の期待を越えて収拾がつかなくなる。ポップコーンか、ティッシュを丸めたような見た目とは裏腹に、水分の多く、屋外にいてこれを浴びるとびしょぬれになる。傘も重くなる。「ポップコーンのやうな」というその発想は、あたたかな「窓内」の無責任な立場で見物するからこそ成り立つのだった。おそらくは昨日の東京のような雪を、Nさんも見ていたのだろう。

ねつしんに聴いてるやうで空聴からぎきをしてゐる子あり徐々に知りしこと
この一年われを幸福にせし乙女まじめで短歌うたうまき秦野と本間
あやまてばたちまち〈母〉となる君らいつしんに我のテスト解きをり
乙女らの内を流るる〈時間とき〉あらむそのへりにゐて歌の講義す

こうして『水苑』中に書き留められた学生らの姿を引くと、なにか小動物を観察するようなまなざしを感じる。「あやまてばたちまち〈母〉となる君ら」といったところでその将来を追跡しようとするような義理は主体にないわけで、いってみればここにも〈無責任〉があるのかもしれない。二首目・四首目のように、しばしば女子学生を「乙女」というあたりはいささか大時代だが、そういえばこの乙女には見覚えがあった。

我の背にもたれて本を読む少女その背の温みをとめづくらし
少女期に入りたるらし横坐りして鍋つかみ・・・・こよひ縫ひをり
『淡青』(雁書館、1982)

第二歌集『淡青』において、高野は自身の娘の成長を「をとめづく」とか「少女期」といった言葉で表現していた。さまざまな死を乗り越えていこうとした第一・第二歌集の時代において、娘の成長は希望を感じることのできるもうひとつの「わがいのち」であったと思う。その〈乙女〉が、時を経て家庭から短大に舞台を移し、それこそポップコーンのように氾濫することになる。

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