割れ落ちたフロントガラスの隙間から流れ出てゆくほそながき猫

佐佐木定綱『月を食う』(角川文化振興財団、2019)

まるでフランシス・ベーコンの肖像画のように、自己や対象がグロテスクに溶けだしていく。そのような瞬間が、この一冊の歌集にいく度も訪れる。

空剝がれその奥の黒さらしつつただ体液を降らし続ける
ほおづえをついて嵐を見ておりし君の口より珈琲垂れる
濡れた顔を濡れた袖で拭ってもなにも変わらず男は笑った
地に落ちた雨跳ね上がり黄昏に烟りはじめる幻の街

たとえば、掲出歌とともに「雷鳴」という一連にあるこれらの歌。恋人とともに喫茶店のようなところでコーヒーを飲んでいる。いつのまにか、外は嵐。そんな顚末を、この作者らしい劇画調のユーモアを嚙み混ぜながら詠んでいるのだが、なぜだか外の雨よりも身体そのものが液化していくような描写が目につく。たとえば二首目で顕著なように、精神の働きが薄らいでいくとき、統御を失いかけた身体はまるで死に近い人の体液のような黒い水を吐く。あるいは一首目はもっと大胆に、大雨を垂らし続ける気象そのものを、劣化する巨大な身体に見立てている。「雷鳴」がとどろき、窓や地面をたたきつける雨の音が絶えず響いているであろうこの連作の舞台上で、これらの〈劣化〉の瞬間は、不思議な静けさに包まれている。現実と幻想とを、微妙なバランスでゆきつもどりつする。

さて今朝の掲出歌。そもそもどうしてそこまで車が大破したのかもわからない。たしかに猫を乗せた車が事故を起こせば、やじ馬たちはそういった光景をまのあたりにするのかもしれない。あるいはスクラップ置き場のような場所に棲みついた猫なのか。掲出歌の一首前には、先の引用の「幻の街」があるので、これは幻想を詠んでいるとみていいと思う。そこで思い出されたのが、本歌集中の「死骸」という連作に詠まれていた一匹の猫の轢死である。

撥ねられて体外に飛び出している猫の瞳にひろがっている春
(昼飯はどうしようかなぁラーメンはきの【死】うも食っ【死】……あの猫は【死】)
猫の血を我がかいなより拭うとき流れていた歌口ずさむかな

車に轢かれ内臓も飛び出た猫の姿は、それを見てしまった主体の心に強烈な思念として残り、あるいはより実際的な「血」にもなって絡みついている(いつまでも忘れられず、目撃した場所に戻って猫の死骸を片付けてやったのだろう)。別の連作とはいえ、掲出歌に登場する「ほそながき猫」と、この轢死した猫は繋がっていると思えてならない。あのとき車に轢かれた猫は、こんどは車の方を大破させて、ひょうひょうと逃げ出してくる。

身体がどろどろに溶けだしていったその先には、人間のみている世界よりも一段深化した、別の次元の生命がある。過酷な社会性生活をユーモアを込めてうたう、と評価されてきたであろうこの歌集には、どうもそういう主題が隠されていたように私には思える。主人公にとって液化した猫の「死骸」に触れることは、現実から逃れるための、かすかな希望をはらむおこないだったとも思うのである。

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