空き缶を踏みつぶす音 この親にこの子と決めた神のゆびさき

小坂井大輔『平和園に帰ろうよ』(書肆侃侃房、2019

神という決定的な存在の、ゆびさきを映して、顔を見ることはできない。ありがちというか、てだれたというか、そのいかにもなカメラワークがおもしろい。幾万もの父と母、そして生まれてくるあかんぼうたちの写真が大きなテーブルの上にばらまかれ、その神が、ピピっと指をさしただけで、親子の組み合わせが決まってしまう。たいして考えるふうでもなく、その日名古屋に生まれるあかんぼうくらいのものであれば、ものの数秒で決定されるであろう。でもこの歌の「この親にこの子と決めた」には、神のすこしばかりの逡巡を期待するニュアンスが隠されているように思う。すこしは悩んで、この親、と決めてくれたのでなければ、やってられない、とでもいいたげである。

この歌のすごいと思うのは、「空き缶を踏みつぶす音」という、いうなればつけあわせの部分である。いっけん無関係に思えるふたつの意味を一首のなかにつなぎあわせる〈二物衝突〉というテクニックとみていいと思うが、それにしても、神の執務室の静寂をぶちこわすような、このつけあわせはなんなのだろう。神にしてみればアルミ缶をつぶすくらいに簡単でも、〈決定〉される側にとっては、つぶされたものはもとに戻せないのと同じように、結果は重大だということなのか。掲出歌をふくむ「スナック棺」という一連には、なにしろ

宝籤が当たった人も即自害するような街で生まれ育って

という歌もある。宝くじが高額当籤するのも、こんな〈街〉に生まれてしまうのも、神の決定するがままであろうが、実は神もこの街に専属し、この街に駐在して、どこかの家でアルミ缶をつぶす音の聞こえてくるような場末の執務室でこんな無責任な仕事を日々こなしているのかもしれない。「スナック棺」から、もうすこし引いてみる。

おせっかいにうるさいなあと返すのも減ってわたしと母に降る雨
欲しいのは、彼女、ベンツに乗る人を消す杖、社長のふかふかの椅子
ラガーシャツ着た父の写真ながめてた 落ちたね 今、雷が何処かに
あれ 声が 遅レテ 聞こえル 死ヌのかナ だれ この ラガーシャツ の男ハ 棺のなかはちょっとしたスナックでして一曲歌っていきなって、ママは

三首目の二物衝突の手つきは、やはり掲出歌に似ている。舞台は神の執務室から主人公の親子関係へと引きずり下ろされるわけだが、四首目の死神のように背後に立つ男は結局のところ「父」なのだろう。「棺」のなかのスナックにいる「ママ」も、母のなり代わりに見える。生と死を支配する家という「棺」が、この一連では語られている。

アウディがペットボトルを踏み潰す音が銃声みたいで怯む

これは歌集中の別の一連「平等な世界」のなかの一首。「棺」から生まれ出た者は、ベンツやアウディを乗り回すらしいあの神に、いつまでもつきまとわれるのだった。

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