『野生の聲』前登志夫
前登志夫の辞世の歌である。亡くなったのは二〇〇八年四月五日。その一月ほど前の病床での歌である。自身の身体を「静かなる沼」と感じている。もはや動きのない水ということだろう。しかしその水には、天上の星々が消えゆく地上の生命を誘うように降り注ぐという。「きさらぎの星」はことさら澄んだ冬の光であるだろう。「ああ、終わる」と自らを思いつつ、「星のひかり」を感じた作者の意識は、最後にまた「吉野」へ飛んで行ったようだ。深い縁につながれた「吉野」へ。
これは、あたかも自身の涅槃図を描いたような辞世の歌といえばいいだろうか。見えてくるのは、一人の生の痕跡を消し去った、自然現象のような滅びのかたちである。歌人の面影や記憶が消えた去った静かな空に、吉野をめざす「きさらぎの星」の光の軌跡が見えるのみである。二〇〇九年刊行の遺歌集。