街路樹が百万のを点すころひつそりと神は瞼おろせり

高野公彦『流木』(KADOKAWA2014

『流木』の冒頭一首目が「神」の歌だったということは記憶にあったのだが、あらためて歌集をひもといてみると「街路樹」とあるのがすこし意外に思えた。「点すころ」とあるだけだから、この神が街路樹と同じ街中にいると断定する理由はないけれども、私には「神」が街中に充満する大気のように茫洋とした存在で、人間の営みをすっぽりと包み込んでいるようにも感じられる。でも、人の気配がいよいよ萌し始めるころ合いになると、逆にこの神は瞼を閉ざしてしまうらしい。街路樹の枝についた朝露や、あるいは真冬なら枝先にこびりついた小さなつららに、日が差し込んでほのかに灯がともるころ —— 。それとも、「百万の灯」というこの具体的な数字はイルミネーションだろうか? 先日読んだ『水苑』(砂子屋書房、2000)には、

原子炉にとほくつながる電線が街路樹の葉のそばを走れり

そんな歌があったのを思い出す。これには神も出てこないし、イルミネーションでもないのだが、どうも高野のうたう「神」は原発に関係しているらしい。というのも『流木』にこんな歌もあったから。

こんばんはくわいらんばんですさう言つて原発事故を置いていつた神

イルミネーションのごときささやかな人間のいとなみにも瞼を閉ざす、その神が、ある夜こんなに他人行儀に、話しかけてきた。どんな残酷な知らせが挟まれていても、あるいはそこにどんなに嫌なやつが住んでいても、回覧板はかならず隣家に運ばなければならない。まったく損な役回りをになわされた「神」がここにいる。人間のおこないを日々侮蔑した調子でまなざしながら(というよりもすぐに瞼を閉ざし、見て見ぬふりをした)、この日はどこか気の毒そうにもしながら、それを置いていった。

そんな「神」を軸にして読み返せば、『流木』と『水苑』には呼応するような歌が多い。

「こんばんは」柊が言ひ「こんばんは」雲間の月がこたへて寒夜
神なんかゐないと言へばその瞬間わが否定せし神がそこにゐる
神はゐてもゐなくても良しみちのくのかやの実せんべい食ひつつ思ふ
「川原葦原」『水苑』

やっぱり『流木』と『水苑』に現れたのは、同一の神だったのだと思う。樹木に宿り、「こんばんは」と月と交信しあう神。「神なんかゐない」と言ってのける人間がひとりいれば、家に忍び込み、ひょいと背後に立つようないたずら心のある神。その家に置いていくものなど、このときはまだ何もなかった。

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