正岡豊『白い箱』(現代短歌社、2023)
「生き物をひかりのなかに置くことがさびしい」、私にはその心情が、わかる気がするのだった。この「ひかり」とはどんな光なのだろう。たとえば早朝のひんやりとすがすがしい陽光を思い浮かべてもいいのだが、私はもっぱら、LEDの強く、無機的な光をイメージする。白い壁に囲まれ、目を傷めそうな白い光を浴びる、撮影スタジオのようなそれこそ「白い箱」のなかに、自然から切り離されたたった一頭のけものがたたずんでいる。
朝の陽光ではなくLEDの無機的な光だと思うのは、おそらくは末尾につけたされた「電子オルガン」の効果でもある。この歌集には、
広い河原がみえたからって はだかになったからって 梨の味の点滴
ばかね子供が金魚すくいが下手なのは当たり前でしょ ショスタコビッチ
のように、末尾にきわめて難解なつけたし(「梨の味の点滴」「ショスタコビッチ」)をして一首全体の意味を無効にするかのような歌がある。今日の掲出歌もいっけんそれに似た構造を持ちながら、しかしこの「電子オルガン」は歌の意味を無効にするどころか、実はよく合致しているように思えるのだった。どちらを向いてもまぶしいほどの白い箱の中で、目を見開いたまま動けずにいるけものの生命はだんだんと薄らいでゆく。そんな光景に流されるBGMに、電子オルガンはきっとふさわしい。この残酷な手法によって無効化されるのは、この歌に限っていえば歌意ではなく、生命の方なのである。
(二首目はもしや、ショスタコビッチへのよびかけなのだろうか。掲出歌は一首全体が「電子オルガン」の説明であり、つまり電子オルガンが「さびしい」と感じているという解釈もなりたつだろう)
第一歌集『四月の魚』において、
みずいろのつばさのうらをみせていたむしりとられるとはおもわずに
という、抽象的なのに残酷さばかりがなまなましい不思議な歌を詠んでいた正岡が、『白い箱』というほぼ三十五年ぶりの第二歌集においては生き物に対してときどき優しい。掲出歌においても無効化されていく生命を「さびしい」と言うくらいである。ときには“白い箱”から生き物たちをピックアップして、本来の居場所に戻してやろうとする。
月面ニアラヌ地上ノ灼熱ノ草ノ葉裏ノショウリョウバッタ
そうさなんでも私が悪いに決まってる タカアシガニが歩く海底
たましいの奥の小川に泣きながら水飲みにくるミツカドコオロギ
これらの生き物たちは、現実ではなく歌の語り手(人間)の想念の中に棲みついた空想の生命かもしれない。しかし和名のカタカナ表記によって生物としての身体が与えられているし、“白い箱”のように人工的な空間にいるのではない。人間の目の届かぬはずの場所に身を潜める〈生命〉を、空想の眼でしずかにめでる語り手の存在が感じられる。
*『四月の魚』の引用は現代短歌クラシックス版(書肆侃侃房、2020)によった。