この国などどうでもよいが首ばかり丹念に洗う湯屋にて洗う

仙波龍英『墓地裏の花屋』(マガジンハウス、1992)

これを読んでとっさに思い浮かべるのが、寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」(『空には本』、1958)。寺山の下句と、「この国などどうでもよいが」とでは、意味としてほとんど離れていないように思う。なのに印象はだいぶちがう。寺山の方はずいぶん神妙だし、仙波の歌にはほんとうに「どうでもよい」感じが出ている。

私には寺山のこの真剣さがよくわからない。時代背景のせいもあるのだろう。でも、この歌はあまりに名歌らしい姿をまとっていて、まるで歌の方がすきのない壁を作って読者を締め出しているような印象を受ける。それに比べると仙波の歌は、私の感覚にだいぶ近しいものがある。「この国などどうでもよい」と首を洗う。——国家をひややかなまなざしで突きはなしながら、主体の関心はみずからの身体、それも首という急所に向かっていく。

さて、種明かしをすると、掲出の一首は、三島由紀夫の自決を回想するような一連「首」のなかに収められているだった。

憂国忌にさきんじて父の二十七回忌 欠席をきめて震へる
坂のぼる途中の脳裏に浮上するこのからだこの首の値段など
唐突にワープロ画面いつぱいを三島由紀夫の首が占拠す
ひとつだからいけないのだらう千こえる首ならべれば美しからう
万こえる首、ビッグエッグに満ちる日を床につくたびにゑがく

もちろんこの一連のなかで語り手(作者)は、三島の自決への評価を声高に語るのではない。かつて社会という喧騒の中に滴下されたそのニュースを消化し、内面化した大衆からふつふつと浮き上がってくる泡のような想念を詠むのである。その意味では、これに先立つ歌集『わたしは可愛い三月兎』のなかで仙波が詠んでいた渋谷のPARCOや「惑星直列」と同等に三島の死を扱っているともいえる。浮き上がる泡とは、具体的には〈首〉というモチーフであろう。

掲出歌の「首を洗う」とは、もちろん「首を洗って待ってろ」というような決まり文句に由来するはずだ。辞書を引くと、これはかつて武士が切腹の際に身を清めたことに由来する、とあった。三島の首は「ひとつだからいけない」と語る一連のなかで「首を洗う」主体は、やがて千倍・万倍に複製され、「首を洗う」大衆となる。三島の憂国も、国家という権力のモンスターも、大衆のおびただしい「首」を前にしてまるで無意味なものになされていく。それこそが大衆の力なのであった。

*引用は『仙波龍英歌集』(六花書林、2007)によった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です