あと五十年は生きてくぼくのため赤で横断歩道をわたる

永井祐『日本の中でたのしく暮らす』(BookPark、2012)

この歌集には

『とてつもない日本』を図書カードで買ってビニール袋とかいりません

という歌があるが、結局のところ『とてつもない日本』の対義語が『日本の中でたのしく暮らす』だったのだろうと思う。人生の「とてつもない」部分だけを見て生きていれば、それはずいぶん格好のつく日常であろうし、それだけを詠んでいられれば歌も輝いて見えるだろう。しかし、ふつうの人生には図書カードやビニール袋といったとるにたらないものどもが始終ついてまわる。そして永井祐という歌人は、とるにたらないものをあくまでとるにたらないものとして、かなり意識的に詠んでいるらしい。それも、歌集題のとおりいつもちょっとたのしげである。

掲出歌がおもしろいのは、赤信号の横断歩道をわたるという、とるにたらない不正を詠んでいるからだ。赤でわたるのはだれのため? と問われれば、それはたしかにわたろうとする本人のためということにはなる。より具体的には、時間の節約のためとしか言いようがないが、それはせいぜい一分くらいの時間だろう。人生の残り時間が五十年もあるのに(いや、だからこそ、というニュアンスで主体は語る)、目の前の一分を節約しようとちいさな不正に手を染める——一分と五十年というふたつの時間がぶつかりあうだけで、この歌のいわんとすることは非常に読みとりずらくなる。

五十年という残りの人生をつつがなく生きこなすためには、赤信号をわたるような小さな不正をまだまだたくさん重ねなければならない、そういう〈弱み〉を語っているのではないか、と私は考えてみる。いってしまえば、〈ちいさな不正〉は日常の中でだれもがするものであるし、もしかするとどの人の人生においても、生涯のあいだに手を染める〈ちいさな不正〉の数はたいして変わらないのかもしれない。一方で若ければその分、残された不正のノルマも多いということになる。

しかしこの歌の主人公は(くりかえすようだが)、どことなく楽しそうだ。「赤で横断歩道をわたる」という言い方も、「赤で」「青で」「点滅で」と、手札からひとつを選ぶような、漫然とゲームをしているような調子である。主人公は、〈ちいさな不正〉の数も、まるでゲームのポイントのように勘定しているのではないか。

2月5日の夜のコンビニ 暴力を含めてバランスを取る世界
返せないわたしにきっと図書館は向いてない 冬の机のうちわ

〈ちいさな不正〉のノルマを原罪のようにしょいこんでいる主人公は、図書館を利用することもはなからあきらめ、さらには「暴力」という大きな不正についても、それで世界はバランスをとっているのだと、引き受けてしまう。たのしさと暴力に両腕をひっぱられながら、平均台の上をふらふらと歩くように、日本の中の暮らしはすすんでいく。

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