あまたある神の御腕の一本に君がいて林檎を我が唇におく

立花開『ひかりを渡る舟』(角川文化振興財団、2021)

「神」の登場する歌はこれまでに幾度かとりあげてきたが、この歌がおもしろいのは、「あまたある神の御腕」とその姿がすこし具体的に説明されているところ。腕がたくさんあるということは(千手観音のようなものだとすると)、それだけ多くの人に対していっぺんに施しを与えることができるということなのだが、その施しが自分にもまわってきたということにちょっと驚いているようだ。なにせ、この歌集の主人公は、人生にあまり期待していない、というか、人生というやつは私にいつもひどい仕打ちをするから、という気分をしばしばあらわにする。

スペインでおとうと死にき私には居らねど誰かのおとうと死にき
鍵開けるとき人はみな俯けり生きづらい子は生きづらい大人になるだけ

この二首は終盤の「易しき二択」という一連から引いた。「生きづらい子は生きづらい大人になるだけ」という定型を極端に超過するうたいようには、こんなはずじゃなかったという心の声がにじんでいるように思える。一首目はどこかやぶれかぶれのユーモアすら漂う不思議な歌だが、「生きづらい」の理由に架空の弟の死を設定した、と私は読んだ。なぜだか、藁をもつかむような必死さで、救いよりも生きづらさの理由を求めようとする。

しかし、歌集をさらに二十ページほど読み進むと、

ワイシャツはすべて水色の恋人がシャツごと越して夫となりぬ

というビビッドな一首を先頭に掲げる「光あれ」という連作が始まる。このなかに掲出歌も含まれる。神の施しがようやく主人公のもとにもたらされるのである。「光あれ」というタイトルは、もちろん新約聖書・創世記中の天地創造の場面で〈神〉が発する言葉。結婚によって、さながら主人公にとってのあたらしい世界が創られたということだろう。しかし「光あれ」は意外なかたちで歌に取り入れられている。

この世のどこかで私の顔が死ぬまでは繰り返される秋の背泳ぎ
黙という深き林檎を割る朝よ死者にも等しくこの光あれ

今日の掲出の一首にうたわれたその神は、腕があまたあるという異形の姿をしている。おそらくは千手観音のように、それらの腕にはさまざまなモノが持たされているのだが、そのなかのひとつの腕に「君」が握られている。異形の神は不意に「君」を握ったその腕を主体に差し出し、その君は主体の唇に林檎をおしつける。しかし、実際の順序は逆だろうと思う。主人公のもとに「君」がいる。君が、林檎のかけらを君の口に押し付けた。その感触で急激にスイッチが入ったように、脳裏に光がまたたき、同時に「神」の存在を感じ取る。しかしその感情はゆっくりと冷やされていって、また落ち込みがちなもとの自分へと戻っていく。「死者にも等しくこの光あれ」という切実な願いのなかの「死者」とは、やはり主人公自身なのだと思う。

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