だんらんのはてに沈黙のあるごとく 夜を森閑と咲きつぐ櫻

中山明『猫、1・2・3・4』 (遊星舎、1984)

ふたつの文脈をごく簡明に並列させたようでいて、考えれば考えるほどわからなくなる歌である。だんらんという言葉から連想するのは、ふつうは家族とか、家庭とか、そういうことだろう。この歌は、その「だんらん」の行きつく先にある“沈黙”と、桜の“花”を並列させている。直観ではそう思うのだが、特に下の句はじつのところちょっと複雑だ。「櫻」が「夜を」「咲きつぐ」とはどういうことなのだろう。

夜を森閑と咲きつぐ櫻——つまり、今日の夜も、あしたの夜も、その次の夜も桜は咲いているということなのか。それとも、今年の春の夜も、来年の春の夜も、咲くということなのか。あるいは、無数の花が、ポップコーンが弾けるように次から次へと開いていくことを、咲きつぐ、といっているのか。たぶん正確に読めば、今日の夜も、あすの夜も、という解釈になるのだろう。しかし、家族というのは、歳月をかけて成長したり、老いたり、生まれたり、死んだりするものだ。その年月のあいだに花が咲くように子供たちが次々と独立して、または姉妹が嫁いでいって(この歌は「聖婚」という一連の中にある)、にぎやかだった家庭に沈黙が訪れる。“家族のだんらん”のカウンターパートには、だから一週間や十日のあいだを咲きつぐというスケールでは物足りなく、年単位の時間を持ち込みたくなる。結局のところ、幾種類もの「咲きつぐ」が木の上でくるくると回っているようで、わたしたち読者はそんな桜をただ見上げている。

しらずしらず老年の坂のぼりつめゐるにやあらむ父のうしろ背
円卓に季節の花は飾られて月夜の婚の時刻ときを待ちゐき
血管の透きたる脚を組みかへてアングロ・サクソンのすゑの女ら
死を選びゆくものあれば遠き近き親族うからつどひて餐をわかてり

いくつもの人生が連鎖するように、「咲きついで」いくイメージが『猫、1・2・3・4』という歌集には、くりかえし現れる。この一首目はまるでバトンゾーンを走りながら(いやじっくりと歩きながら)父から子へと世代が継承される瞬間のようだし、三首目ではアングロ・サクソンの女性をわざわざ「アングロ・サクソンのすゑ(子孫)の女」と呼び、今を生きる人間は人類の巨大な家系図の底辺にいるのだということを強調する。全体としては多く歴史的なモチーフも扱いながら、〈人間の継承〉をつかさどる神のノートを盗み見るような歌集だった。

*引用は著者がホームページで公開しているテキストデータよった。
(「猫、1・2・3・4」で検索)

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