『靑童子』前登志夫
奈良県吉野を生地として、自らを山人と称して生きた前登志夫の山桜の一首。「ふるくに」とはむろん古い時間の堆積する吉野であり、その地の山桜の咲く「ゆふべ」を「匂ふ」と歌っている。しかしその静かな情景は、下句で一転する。この「殺めたるもの」とはいったい何か。作者が山人であれば、生きるために殺してきた獣や樹木をまず思いうかべることができるだろう。いや、もっと内面的な歌人の奥深くに沈めてきた殺意であろうか。さらに思えば、吉野という地は生臭い政変にまみれた歴史をもつ地でもある。こうしてこの地の「ゆふべ」はたちまち殺気を孕むのだが、しかしその「しづけさ」にはまったく変わりはなく、歌人はその「しづけさ」を見とどけている。
山桜のほのかな匂いに、輝きに、一瞬、血の気配がまじるという。それも「ふるくに」ゆえである。まさしく「ふるくに」から生まれた一首というべきだろう。一九九七年刊行。