夢の中ではジャズピアニストのものだった指で洗濯物をあつめる

安田茜『結晶質』(書肆侃侃房、2023)

先夜見た夢の中で、ジャズピアニストになっていた。めざめて現実の〈わたし〉へと戻ってきた主体は、もちろん夢の中でそうしていたように華麗にピアノを弾くことはできない。もしかすると、夢の中でも、勝手に鍵盤の上を動きつづける指を呆然と、見つめていたのかもしれない。

「ジャズピアニストのものだった」のあたりには夢の中の自分を他人行儀に突き放すような、微妙に屈折する心情があらわれている。ピアニストだった夢の中の自分への思いを断ち切り、現実へと向かわせようとするかのようだ。片や現実のわたしは、洗濯物を集めている。集めなければならないくらいだから、いくらか雑然とした室内かもしれない。それは客の前でピアノを弾くということとは真逆の、生活感のきわめて強いワンシーンだ。しかしじっさいのところ、洗濯物というのも、ずぼんやスカートやシャツや下着……とバラエティーに富んで、色もさまざまだし、これにはピアノの音色のような多彩さがあるのではないか。それらをひとつひとつつかみとっていくという指の動きには、ジャズピアニストの華麗な演奏に通じるところがある。いくつもの音色を自在にあやつる夢の人生も、混沌とした日常に身を投じる現実の人生も、実は表裏一体の関係にある。この歌をじっと見つめるうち、そんな気がしてくるのだった。

同じ連作「遠くのことや白さについて」から、指の歌をもうひとつ。

蠅の死はわたしによってもたらされわたしのゆびにつぶされる小蠅

真ん中にひらがなが続き、「蠅の死」「小蠅」が両端に押しやられる。作者が意識したかはわからないが、字面としては

蠅の死←———————————————————————→小蠅

という構図を取った歌。蠅にとって、自分が「小蠅」であるということと「死」だけが現実であり、「はわたしによってもたらされわたしのゆびにつぶされる」というひらがなの羅列部分は、蠅にしてみれば濃く垂れこめた霧の向こうにあってうかがい知ることのできない人間の想念である。

掲出歌のピアニストと現実のわたし、そしてこの歌の小蠅とその死。いずれの歌でも「指」は二者をつなぐ、言い方を変えれば、切り替わりの起点という重要な役割をはたす。ジャズピアニストのわたしと、現実へと追い出されたわたしとを繋いでいた指は、まさに今、蠅の生と死を切り分けようとしている。

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