わがうちに井戸ありいまだわが汲まぬ井戸にもたれて影ひとつあり

関口ひろみ『あしたひらかむ』(1998年)

 

 

自分の内側に、奥深くへ続く「井戸」があるという。
そして、その水をまだくみ上げたことはない。
これは自分のはるかな底に、なお自分の知らないものが眠っているという感覚だろうか。

 

わたしたちは大体に、自分のことはわかったような気になって暮らしているものの、また自分ほどわからないものもない。

「いまだわが汲まぬ」対象としてあるものは、可能性のようなものでもありえようし、一方で邪悪なものであるかもしれない。

 

ところでわたしにとって謎なのは、この歌にあらわれる「影」である。
凭れている姿勢には、リラックスした感じを受ける。

「影」は、この「井戸」を無理に覗きこもうともしなければ、畏れてもいず、自然な感じだ。
ただ「影」には、どうしても暗いイメージがつきまとう。さらにここには「影」だけがあって、実体がない。
これは、自分の内面に存在する、〈わたし〉の分身のような「影」なのか。

わたしには、この「影」の姿が、自分の底に眠る未知との親和を表しているように思える。暗い、実体のないものであることが、その親和を複雑で陰影深いものにする。

 

もしかしたら「影」は、自分に寄り添ってくれている人の姿の投影とも読めるかもしれない、と再び歌に目をやって思う。

あるいはこれは、秘めた相聞の歌で、「影」はその相手なのか。

この謎深き、ゆえに魅力的な「影」。

この一首をもって、『あしたひらかむ』は閉じられる。

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