江戸 雪


指切りのゆび切れぬまま花ぐもる空に燃えつづける飛行船

穂村弘『シンジケート』(1990年)

「花ぐもる空」は、つまり<花ぐもりの空>ということ。桜の咲くころの霞んだ空なのだろう。桜の花びらが空を覆い尽くしている春の昼をおもいうかべる。
そんな空のした、「指切り」をする。「指切り」には、屈託のない遊びのようにみえながら、束縛の怖ろしさがあるようにおもう。絡み合わせた指を、「ゆびきった」などと云いながらほどくことによって、その誓いや約束は守るべきものへと変化する、そこがなんともいえず怖いのだ。

ここでは、かわらない愛を誓おうとしたのか、それともなにか約束をしようとしたのか。
「ゆび切れぬまま」が、絡まっている指を離したいけれど離せない現実を提示する。
つまり、うっとり夢見るようにする指切りとはうらはらに、現実には、この誓いはきっと守れない、というかすかな確信が胸の奥底にあるということ。
そんなもやもやした気持ちと、花ぐもりの空。これらのイメイジが重なる。

ほんらいなら、ここまでで歌はじゅうぶん成り立つ。
しかし、この歌、さらなる事物が登場する。それが「燃えつづける飛行船」だ。

燃えている場所は、そばの焚火でも野原でもなく、はるかな空の上であるということ。
燃えているものは、ふだんならのんきに浮かぶ「飛行船」であるということ。
また、燃えている、のではなく「燃えつづける」という表現によって、火がなんともいえない強さを持っていることも感じとれる。

ここから遠くはなれた、しかし誰にでも見ることのできる場所に、平和の象徴のような「飛行船」があかあかと燃えさかっている。
この光景を、どう受けとめるか。
ひとつたしかなことがある。
この、現実ではほとんどありえない光景が、その非現実感によって受けとめようとするものの内面へと強くむかい、ねむっていたおもいを呼び起こす、ということ。

たとえば、つぎのように考えるひともいるだろう。
「燃えつづける飛行船」は、自分自身への警笛や啓示である、と。
また、指切りさえうまくできない、生きるのが下手な自分への怒りの表れであると同時に、そんな自分が救われたい願いもこめられているのだ、と。

短歌は言葉の世界。
言葉を追いかけて行くうちに、言葉は、自分に返ってくる。この歌を読みながらそう感じた。