澤村 斉美


くちなはの水を切りゆくすばやさをちらと見しより心やぶれぬ

金子薫園『覚めたる歌』(1910年)

ちょうど1か月前の4月30日に、前田夕暮の『収穫』から「君思ひ窓によりつつ牛乳(ちゝ)を飲むうすあたたかき日光を吸ふ」という歌を取り上げたが、今日取り上げる薫園の『覚めたる歌』も『収穫』と同じ1910(明治43)年に刊行されている。いずれも今から100年ほど前の短歌なのだが、理解できないほど「遠い」という感じがほとんどしない。むしろ今の短歌と地続きであることを感じるのである。

 

「くちなは」は蛇。水の中をするするとすばやく泳ぐ蛇の姿を目にする。それを見たときから心がやぶれているのだという。「やぶれぬ」は「破れぬ」として読んだ。この歌の中で、心の中身は明らかではない。何に対してどう思ったのかを明らかにしたい歌ではないのである。くちなはが水を切るように泳ぐ景色を契機として、不意に破れるように心が動く様子、感情が動く様子を「やぶれぬ」という言葉で捉えているのだ。景色と心の動きとの調和を図る歌だといえよう。

 

  雨の日の室にちらばる枇杷のたね、哀しきことを切(しき)りにおもふ

 

同じ歌集から、景色と心の動きの歌をもう1首。雨の日の部屋に、枇杷を食べた後なのだろうか、種がちらばっている。その景色と下句の「哀しきことをしきりにおもふ」との因果関係はまったく不明だ。枇杷の種に哀しい思い出があって、枇杷の種を見ればそのことを思い出す、というようなことではないのである。雨の日の室内に枇杷の種がちらばっている景色になんとなくもよおす感情を下句で述べ、下句で述べたことが上句の景色にはね返って、その景色に哀しい色をつける。

 

『覚めたる歌』には、このタイプの歌が多くみられる。