黒瀬 珂瀾


たまり水が天へかへりてかわきたるでこぼこの野のやうにさみしい

中野昭子『草の海』

 

野原を歩いていると、小さなくぼみに足を取られることがある。雨水の流れに土が抉られたりなどした跡だろう。雨ののちしばらくはたまり水を湛えていたくぼみだが、しばらくの晴天で水が蒸発してしまう。すると、乾いた土のくぼみだけが野原のあちこちに残る。

 

作者は、そんな野原をさびしいと感じ、さらに、その野原のように、今現在の自分もさびしいという。天からの恵みだったたまり水を、あっという間に天に返してしまった野原。後に残るのは、水を受けた痕跡のくぼみだけ。ちいさなくぼみがあちこちで、ささやかな虚無を抱いている。そんな野原を思う時、作者は自分の心のあちこちに穿たれている「乾ききったでこぼこ」に気付いたのだろう。自らの心と身体から水が天へと帰ってしまった。この水はもしかしたら、「心の柔軟さ」かもしれないし、「若さ」かもしれない。

 

  しみじみとひかりを点す街灯が腑抜けのようになる朝の来て

 

しらじらと陽が昇るにつれて、光の中に街灯がぼやけ、まるで腑抜けのようになった。夜明けの街をこう思ってしまう心と、天へ帰っていった水を思う心とは、等しいものだろう。でも、こうして自らの中の喪失や弱みを静かに見つめる歌は、同じような喪失を思う読者に慰撫をもたらす気もする。失ってゆくことの中にも、優しさがあるのだ。