背中から十字に裂ける蝉の殻 生きゆくは苦しむと同義

伊津野重美『紙ピアノ』

 

ほんの一週間ほどの命を、大きな声で鳴きつくす蝉たち。地中から這い上がり、殻から脱皮するその行為は、残りわずかな命を燃え上がらせる口火であり、同時に、死への出立でもある。蝉の成虫の命は短く、その生きざまが激しく感じられるからこそ、生と死の交錯がより強く感じられる。空蝉の背中に残る十字の裂け目は、新たな生を地上に送りだした痕跡であり、そして、小さな死を宣告する十字架の墓標でもある。

 

たしかに、生は生まれた瞬間に死を宿命づけられている。頭では解っていても、掲出歌のように出立そのものが墓碑銘となった形骸を見せつけられると、改めて息をのむ思いがする。下句の「生きゆくは」「苦しむと」「同義」という5、5、3音による句跨り・字足らずの破調も、一言一言をゆっくり重々しく告げられてゆくような効果を生み出し、どこか呪文性を帯びる。「同義」という硬い、本来なら短歌には向かない説明調の単語が、ずん、と断言を深みあるものにしている。一音欠落の結句が「同義」、と言い切られた後、そこには光なき深淵での沈黙が流れる。

 

  今夜堕つ蝉の声降る赫々と生キルノコワイ死ヌノハツライ

  忘られし骨の檻(ケージ)に棲む鳥は羯諦羯諦(ぎゃあていぎゃあてい)吾の声で哭く

  わたくしを見殺しにする母の顔を忘れられずに余生を生きる

 

一読して凄みを感じるのは、これらの歌が作者の感情を煮詰めつくした肉声の反映であるからだろう。伊津野は独特な朗読によっても知られる歌人だが、この掲出歌も黙読時だけでなく朗読時にも、それぞれの様式で読者or聴者の心を揺さぶる複層性を持つ。その背景には宿痾や肉親への思いが透けて見えるが、個人的来歴の詮索は必要ない。ただ私たちは、読むものを息苦しくさせる強烈な心情吐露を目の当たりにすることで、生きるとは一体どのようなことであるのかを、否応なく自問させられれば良い。そこに作者が短歌を命の綱とした理由もあるのだろう。生まれて初めて体験する「蝉を聞かない夏」を終えつつ、そんなことを思った。

 


9月28日修正。10月3日再修正。

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