掌のとどくはるかな位置に黒曜の髪の澄みつつ少年のあり

                       大塚寅彦『刺青天使』(1985年)

 

 「掌のとどく」と「はるかな位置に」はむろん矛盾しない。手の届くような、しかしながら遠く遥かとも思える場所にかがやく黒髪の少年がいる。すぐそばにいるのだが、自分とは遠く隔たったようにも感じられる、存在とでもいえようか。そして、少年は他者でありつつ、「私」の投影ではないだろうか。彼は昨日の自分、あるいは明日の自分である。近いようで遠い。そんな自己意識の揺れとナルシズムが「掌のとどくはるかな位置に」という独特の距離感のうちに析出されていると思う。永遠の青春歌であり、現在でもその輝きを失うことはない作品である。

 

 大塚寅彦は一九八二年九月に「刺青天使」三〇首にて短歌研究新人賞を受賞し、歌壇にデビューしている。当時二一歳。世代のトップバッターとしての出発であった。

 

同性のまかがやく頬をもつきみを羨しむゆゑにみつめ初めしを

放蕩のつのぐむ季のみず済(わた)り惰天使とぞ血のかよへる天使

真夏へのエチュード 駆くる少年の花車(きゃしゃ)な楽器のごとき自転車

 

 受賞作からの引用である。同性である少年を題材にしており、同性愛的なテーマの歌と思われるが、不思議とナマな感じがしない。一首目、同性の少年の頬に見入ったということに対して「羨しむゆゑにみつめ初めしを」というように、因果や理由を付けている。もちろんこの「ゆゑに」あたりの躊躇やひと呼吸おく感じは巧いと思うが、少年を思う気持ちがやや間接化されたり、計量されたりしているように思う。三首目、「少年の花車(きゃしゃ)な楽器のごとき自転車」も、一瞬少年の体が花車な楽器のように思われるが、結句まで読んでゆくと、花車なのは自転車なのである。そういうテクニックは、群を抜いているが、それゆえにどこか間接的でもある。むろんそれは作品のマイナスではなくて、計量された美学とでも言ってよいであろう。

 

  手元に受賞当時の「短歌研究」があるので、選考委員だった島田修二の言葉をすこし引用してみよう。

 

青春そのものというような意見には同感ですけど、何かもうひとつイメージがはっきりしないですね。少年愛とかナルシシズムのような領域についても、私は必ずしも否定的立場にはないつもりですけれど、そうしたものの反社会性ということを含めて、もうひとつ存在理由に乏しいんです。      

 「短歌研究」一九八二・九

 

 おそらく、島田の頭には大塚の師でもある春日井建の作品世界との比較があったのではないだろうか。

 

われよりも熱き血の子は許しがたく少年院を妬みて見をり

だれか巨木に彫りし全裸の青年を巻きしめて蔦の蔓は伸びたり

肋のなか潮騒は日日昂まれりしろき泡沫の愛育ちきて

                   『未青年』春日井建

 

 同性愛的題材を詠んだからといって、大塚の歌にはもはや反社会性などは現れて来ない。前衛短歌から離れて八〇年代が始まりつつあった、そんなことを二人の作品の差から感じたりするのである。

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