石川 美南


春の大気かぶりを振ってまぜかへすレトリーバーの毛脚ふかぶか

松本典子『ひといろに染まれ』(2010)

 

「レトリーバー」と名の付く犬種は幾つかあるが、「毛脚ふかぶか」という言葉から連想するのは、金色の長い毛に覆われたゴールデン・レトリーバー。穏やかで賢く、人によく懐く大型犬である。大きな犬がゆっくりと頭を振ると、春の温かな大気も一緒に撹拌される。

同じ犬の仲間でも、たとえばチワワのような小さな犬がちょこまかと動くのでは穏やかな空気感は表せないし、ドーベルマンではシャープすぎる。その点、レトリーバーの体躯や性格は、「春の大気」にぴったりだ。さりげないようだけれど、犬の様子と季節感とを的確に捉えた美しい歌だと思う。

 

『ひといろに染まれ』は松本典子の第二歌集。カバーには刷毛で塗ったような鮮やかな水色があしらわれており、見返し部分も栞も水色。まさに「ひといろに染ま」っていくようだ。しかし、歌集に収められているのはむしろ、一色では染め上げることのできない日々の揺らぎを掬い取った歌ばかり。出産した妹と子供のないわれ、老いてゆく母など、変わっていく家族の姿を繊細な眼差しで見つめた歌も目立つ。

 

  ランナーの歓喜にとほく蜘蛛の糸繊(ほそ)きを切つてしまひたる胸

  われよりもわが瑕(きず)つぶさに記憶してビル・エヴァンスが針飛びをする

  進軍する父はゐないか驟雨、否、黒き縦線はしるフイルム

  ひまはりが大地をはなす冬はきて戦死者の遺骨あつめが続く

 

うっかり蜘蛛の巣にひっかかってしまった時や、柔らかなジャズ・ピアノが音飛びした瞬間、「われ」の心の瑕をほんの少し意識する。そういう繊細な視点の一方で、かつて戦地に赴いていた父を介して戦争の悲劇に思いを馳せるというような、広い視点に立った歌も印象的だ。

 

  ひといろに染まれと迫る街をいま振り切って風に飛ばすルイガノ

 

青い青い空。急かすように迫ってくる街並み。悩み多き日々の生活。みんなみんな振り切って、自転車はしばらくの間、まっすぐに駆ける。