寺井淳『聖なるものへ』(2001年)
ボートやカヌーを終えた後の光景だろうか。夕暮れになり、一日水遊び(競技かもしれないが)をした人々はオールを片付けている。「墓碑のごと」という比喩がなんとも不気味である。立てかけられたオールが、墓碑と形が似ていたからそう形容したのではないだろう。立てかけられたオールに、墓碑に表象されるような類似の要素を感じ取ったのである。目の前にある光景が、墓場の風景に見えた。一日の終わりが世の終わりに繋がるような錯覚がそこにあった。初句の「軋みつつ」はオールのことかもしれないが、人々が軋んでいるようでもあろう。眼前の光景は冒頭から軋んでいるのである。「この夕暮れ」の「この」の限定もうまく、たちあが映像は半ば幻想であるのにリアルだ。そして、「墓碑のごと」は、オールを片づける人々をすこし離れた所から視ている主体の、その光景の解釈である。作中主体が眼前の風景を認識し、解釈し、自問するという行為が「墓碑のごと」という語の斡旋のうちにあると思う。
急いで付け加えると、そういう主体の認識や解釈や自問が常に揺れているのがこの歌集の魅力であると思う。
七曜の七曜までをわれといふ仮面のなかで踊れ俳優
とりあへずけふは眠らむ湖をまもるパートタイムの神を夢みつつ
あるかなき守護霊などに背を押され踵より浮く朝出の散歩
「われという仮面のなかで踊れ俳優」は自嘲であろう。七曜のすべてを仮面の下で俳優として主体は過ごすのである。自意識や主体性は「仮面の下」にあるものだというのは鋭い自己認識だが、その認識の内容は、たちまち靭い自己認識をもっているはずの主体の足元をさらって行く。「パートタイムの神」は、かりそめの神である。これは言葉そのものが形容矛盾であるが、その矛盾のなかで主体は宙吊りにされるのである。大雑把な把握を許してもらうと、この辺りの主体性の揺れには、遅れてきたポストモダンという風情が漂うようでもある。
柔らかき午後の湖面の影となり婆裟羅なるべしその黒揚羽
眠い眠い 沼は静かにみづかねをかたむけてなほ揺れたるみどり
壁はしかし垂直に立つよろこびに惑わすごとく午後を降る雨
散る紅葉語彙の林にわけいりて<ら抜き言葉>の時雨てゆくか
ふるき歌うたはずと思ふ今生に総ルビを降るごとく花降る
「<ら抜き言葉>の時雨てゆくか」「総ルビを降るごとく花降る」いずれもアイロニーの中に、作者なりの先行文学先品や美意識へのこだわりがある歌だろう。何となくロマンティックで甘美でさえある。
他に、ふと作者の素顔が見える次のような歌も印象に残った。
髭はおとせといひたき風情教壇にはかなきかなや靴中の小石
半日の喪服を解きて妻はいま夕餐の蓮根を煮るひと
猫を抱き七時のニューズ視てゐしが夕餐の鯵かれは嘔吐す