狩られては低き草生に身を伏せてかつがつ在るを鳥とおもふな

斎藤史『ひたくれなゐ』(1976)

 

「雉も鳴かずば撃たれまい」という言葉を初めて知ったのは、「まんが日本昔ばなし」の中でのことだった。貧しい男が、病の娘に赤飯を食べさせるため、地主の家から僅かな米と小豆を盗む。元気になった娘は、嬉しげに鞠をつきながらあかまんまの唄を唄う。ところが、村の川が氾濫し、人柱を立てることが決まったとき、娘の手まり唄を証拠に父親が罪人として咎められ、人柱にされてしまう。娘はそれ以来口をきかなくなるが、ある日、撃たれた雉を抱き上げて「雉も泣かずば撃たれまいに」と呟き、そのまま姿を消す。

辞典ではあっさり「無用の発言をしたばかりに,自ら災害を招くこと」などと説明されている言葉だが、民話は非常に哀れが深く、むしろ、いわれもなく撃たれた雉への同情が優っているように思う。

この歌の語り手も、狩られた鳥に強く心を寄せている。「狩られては」とあるので、目の前に横たわる一羽の鳥を見つめているというよりは、幾たびも狩られ続けてきた鳥たちの長い歴史に思いを馳せるニュアンスだろう。

不本意に地に伏せる鳥の姿を、しかし一首は、結句に至って力強く否定する。鳥は本来、自由に空を飛ぶものなのだと。

『ひたくれなゐ』は斎藤史の第8歌集。彼女が最後まで決して手放すことのなかった二・二六事件の記憶は、この歌集にもくっきりと影を落としている。加えて、母と夫の介護・看護に追われる日々。

 


  花あかりわがたましひに沁み入るになほ昏(くら)しその片面ほどは

  おびただしく言葉は朽ちてひそやかに光る苔らを育たしめたり

 

苦しい日常を反映してか、どの歌もどこかしんみりと暗い。しかし、そんな中でも格調高く詩の言葉を育てようとする、その誇り高さに打たれる。

 

  道しるべよむごとく我の顔を見て猫は去りたり信じざるまま

  おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は

 

仄かなユーモアと、生きていくことの寂しさが共存したような歌も、魅力の一つだ。

 

  死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも

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