柳 宣宏『施無畏』(2009年)
誰でも経験はあるだろう。肉屋でコロッケを1個だけ買って、ほくほくとしながら食べる。
こどもの頃、私はどうしてコロッケが肉屋で売っているのか、不思議でしかたがなかった。魚屋や八百屋で売っていたらもっとおかしいかもしれないが、肉屋は肉を売っているお店と思っていたので、肉ではないコロッケが肉屋で売っていることに、納得ができなかったのだ。でも、誰にも聞かなかった。なぜ、コロッケは肉屋で売っているの? だからいまでも、若干不思議な気持ちは残っている。
誰でも経験はあるだろう。肉屋でコロッケを1個だけ買って、ほくほくとしながら食べる。いや、ほんとうにそうか。誰でも経験があるわけではないのかもしれない。それに私だって、近所のスーパーマーケット「グローサー」のなかにあった肉屋でコロッケを1個だけ買って…、と思っているが、もしかしたら…。
そんなことはどうでもいいのだ。いま、私たちの目の前にこの一首がある。それが大きなよろこびなのだ。
枝先に生れてきたのは春である木の芽のなりをしてをりますが
セロファンに包まれたるを春の野に光らせながらほどくおむすび
饅頭の白きを食ひてニッと笑む死にさうもない母に寄り添ふ
突堤の先にて胡坐をかいてゐる波のひびきをひとり占めして(詞書:小さな漁港が在る)
父さんはもう死ぬことはないんだな遺影の前に麦酒を捧ぐ
なんにもない浜辺になんでもないひとりこの町に来たあの日のやうに
秋の空見上げる子ども真つ白な帽子の下から手と足を出す
「奈良の大仏、昆廬遮那仏(びるしゃなぶつ)の左手の印を与願、右手の印を施無畏(せむい)と呼ぶ。社会の価値観から解放されて、自然と共に明るく元気にいきいきと生きたらいい、そうおっしゃっておられるのだと、師匠の境野勝悟老師からお教えいただいた。もって歌集名とした」と、柳宣宏は一冊のあとがきを結ぶ。
『施無畏』は明るい一冊。冬の、あるいは春の、柔らかな、穏やかな光が差している、そんな一冊。明るさは、かなしみ。そして、時間というもののやさしさを教えてくれる一冊でもある。