昏れおちて蒼き石群[いはむら]水走り肉にて聴きしことばあかるむ

山中智恵子『紡錘』(1963年)

『山中智恵子全歌集 上巻』(砂子屋書房)に収載

 

山の奥、川の上流の情景でしょうか。第三句の唐突な〈水走り〉に清冽な疾走感があり、日が暮れて周囲の見分けがつきにくくなるなか、せせらぎの音を敏感に聞き取る作者の身体感覚を想像しました。

想像というより、共有したといったほうが、より正確でしょう。

文学に共感は要らないという評言を、ときどき見かけます。同意しますが、共感を超えた共有とでもよぶべきはたらきは、作品を感受し鑑賞するうえで欠かせないと考えます。

第四句以下はさらに唐突な展開ですが、〈肉〉のひとことが歌になまなましさを生じさせます。この瞬間、作者はみずからの全身を、耳という名の肉体に変化させています。

1968年刊の歌集『みずかありなむ』の巻頭言「私は言葉だつた。私が思ひの嬰児だったことをどうして証すことができよう――」はよく知られており、作者自身の短歌観をあやまたず語っています。私の肉体は言葉でできていた、と読んでしまってよさそうです。

嬰児、つまり、これから言葉を覚えてゆく状態でうたうことを、山中さんはつねに重視し理想としていたのでしょう。

 

みづからを思ひいださむ朝涼し かたつむり暗き緑に泳ぐ

 

〈みづからを思ひいださむ〉ことも、言葉で自身を認識することと考えられますし、かたつむりのたたずまいも言葉を知らない嬰児を思わせます。

このように山中さんの歌は、つねに生まれたての新鮮さに満ちています。5月生まれの人らしい伸びやかさ、眩しさがあります。