佐藤 弓生


足早のギマールが地下鉄に乗るまでを確かめ秋かぜの中

吉野裕之『砂丘の魚[うお]』

(2015年、沖積舎)

※著者名の「吉」の上は、正しくは「土」

 

ギマールって誰だろう。フランスの建築家?

でも今はなんとなく、作者の友人の名として読みたい気がします。

雑談になりますが、一昨日、オルガニストのエドガー・クラップさんの演奏会に行きました。同じくオルガニストの小林英之さんが、今夏ミュンヘン郊外のクラップ先生宅を訪れたとき駅まで車で送迎してもらった話をパンフレットに書かれています。

帰り、駅に入って地下道をくぐりホームに出ると、先生がそちら側に立っていて手を振り、車に戻っていったのだそう。

「童心とは言えないまでも」と小林さんも述べているとおり、見送る、見送られるというのは、大人の合理性をいくぶん忘れさせる行為であるようです。

ギマール氏は足早とあるので、さっそうと行動でき、異国にいても地下鉄くらいはひとりで利用できる大人でしょう。作者もさほど心配しているわけではないけれど、彼(男性に思える)が車両の内へ入るまでをなんとなく、見届けてしまう。

ちょっとした停滞の感覚があります。

そののち詠み手は地上へもどってきて〈秋かぜの中〉にいます。また動きだす感覚。なにが? 時間が。

大人の時間がつねに一定間隔で動いているとして、その動きからの逸脱、時間の緩急の感覚をすくいとった一首だと思います。

 

私のビルを見上げる一団を避けつつ歩道橋を渡りぬ

 

私の、は仕事関係の意味でしょうか。歩道橋の半ばで〈見上げる一団〉を見つめたときも、時間は一瞬、緩んでいたかもしれません。