橋脚ははかなき寄辺よるべひたひたと河口をのぼる夕べの水の

大辻隆弘『景徳鎮』(2017年・砂子屋書房)

 

小題「くれなゐ」一連9首、最後の歌。一連は病床の父の傍らで歌われたもの。すぐ前に【しづしづと語りしこともなかりしを父に向へば頷くごとし】があり、これまでの父と息子の関係が回想されている。「頷くごとし」には、作者からみた父像が描かれている。また、そのようであってほしいという庶幾があるのだと思う。

 

引用の歌は、橋脚を歌っている。自然の風景のように見えるが、上記のことを考えれば、比喩として読まれるよう意図されているにちがいない。上げ潮が河口を上りはじめる。橋脚にあたって水が揺れる。橋脚は、一時の通過点であって、水をおし止めるものではない。水は時間、橋脚は人間、と理解した。ここでの人間は父。「寄辺」を求めざるをえない人間の寂しさを思った。

 

水のおもてに今日の曇りの移るころ河口に道は尽きむとしたり

李禹煥リー・ウーファンの余白の白をおもふまでほそくし降れり一月の雨は

紙コップ白きをふたつ携へてあなたがさつき立ち去つた椅子

 

「李禹煥」は、石、木、紙、綿、鉄板などの素材を組み合わせる「もの派」といわれる美術家である。『余白の芸術』などの著書があり、「もの」がつくる余白を大きな主題として取り組んでいる。『景徳鎮』の歌の、シンプルな構図とそれを覆う情趣に通じている。「道は尽きむとしたり」「立ち去つた椅子」は、「無」を見つめているのである。