渡辺松男『寒気氾濫』(1997年)
「平原」、胸なのだろうが、遠くまでひろがる原っぱが頭に浮かぶ。そこに、二つの小さな突起としてある乳首。
そういえば、男の人の乳首って、赤ん坊におっぱいをやるわけでもなく、何のためにあるのだろう。在ることの意味がうすい。
だだっぴろいところに、あってもなくてもいいようなものがある。その存在のたよりなさを、外側から描写しているのだが、「泣きたいような」で、読む者はこの「乳首」の気持ちに同化する。「乳首」になって、その泣きたい気持ちを実感する。
思えば男も女も、「生」というところにある日突然放り出されて、なんと不安であることだろう。表面“大人”として生活を送っていても、みんな底ではいつも「泣きたい」を抱えて生きているのだと思う。
現代の日本では、泣くこと、特に男が泣くことは歓迎されないが、「泣きたい」と言い放ってくれていることが、読む者の気持ちの束縛を解く。
実のところ、「泣く」を使って、読者を深く共感させ、気持ちを解き放つのは、相当にむずかしい。だが、この歌の「泣きたい」には気持ちがしっかりと添う。
「ぽつんぽつん」は、たよりなさを表しているが、ひらがなの感じや音感にかわいらしさがあって、なにがしかのユーモアを漂わせるところがあり、それが歌に深みを与えてもいる。