眼路のかぎりみはるかす冬黄昏の地平どこまでわれらが地球(テラ)

井辻朱美『地球追放』

「眼路」は「まなじ」か「めじ」と読む。「見通せるところ」「見える場所」といった意味だ。「がんろ」という読みもあるが、これは「眼前」という意味で、歌意に合わない。掲出歌の場合は「まなじ」と読み、初句七音とするのが、個人的には心地よいリズムと感じる。もちろん初句六音の「めじ」でもいいが、「まなじのかぎり…」という4・3のリズムによる滞空時間が、二句目の「みはるかす冬」という大きなイメージをより印象深くするように思う。

 

いったいどんな風景だろう。草原か、荒地か、なんだか日本ではないような、広大な空間を想像させる。見渡す限りそこは「冬」。具体的な事物は描写されず、まさに〈冬の荒涼さ〉そのものが永遠に広がってゆくようだ。しずかに日は暮れ、黄昏が冬の地平を覆う。冬の乾燥した冷たさの中、少しずつ闇が訪れ、光が地平の奥に沈んでゆく。そんな荘厳な一瞬、ふと心に湧いたのが「どこまでが私たちの地球なのだろう」という思いだった。

 

当然、地平のどこまでも地球だ。しかし、本当にあの地平の奥にも、同じように冬の地平が広がっているのか。小さな人間の「眼路」は、地平線の向こう側を確認することは出来ない。神ならぬ人間が肉眼で見ることが出来るのは、あくまでも地平線のこちら側だけ。もしかしたらこちら側だけが地球であって、その奥は無限の異空間かもしれない。そして、「われらが地球」という表現は、われら以外の者にとっての「地球」の存在をも示唆する。この地球に生きるのは、私たち人間だけではないのだ。

 

井辻は「地球」と書いて「テラ」と読ませる。ラテン語で陸地、大地、地球を意味する語だが、単に「ちきゅう」と発音するよりも、もっと遠い存在、遥かな存在としてのイメージを思わせる。「われらがきちゅう」ならば素直に結句七音で納まるのに、あえて「われらがてら」と六音にしたのも、この一音欠落の中に、この地球は決して人類にとって身近な存在ではなく、実は遥かな遠い存在であるという余韻を込めているのではないか。

 

  海に湧く風みなわれを思へとぞ宇宙飛行士(アストロノオト)の夜毎のララバイ

 

このアストロノートはもう地球に帰還できず、宇宙を漂い続けるのではないか。なぜかそんな気がする。テラの海に向けて「私を思い出せ」と念じつつ、ララバイを歌う。その歌声は海には届かないが、永遠に宇宙を響かせるだろう。遥かな世界にはこうした、故郷に二度と戻れない者たちがいる。私たち人類にも、あの「冬黄昏の地平」に戻れなくなる日が来るのかもしれない。

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