自転車の銀の車体にこびりつく昼のひかりは泡のごとしも

                              生沼義朗『水は襤褸に』(2002年)

 

 現代短歌に自転車の歌は多い。日常生活ではマイカーを操る歌人も多いはずだが、素材となることが多いのは車より断然自転車である。

 自転車の形状はどこか人間に似ていないだろうか。ハンドルが手、前かごが頭で、ライトが目である。そして背中にまたがる。そう考えると、自転車に乗るという行為は体に体を重ねるということであるから、どことなくエロチックな感じがする。歌人が車より自転車が好きな理由も理解されよう。自動車は全くセクシーでない。

 やや話が横道にそれた。この生沼の作、まず、自転車の車体をぼんやりと眺めている主体がある。自転車のフレームが昼のひかりをはじいているのだが、それを「こびりつく」としたところがおもしろい。「こびりつく」のは普通は泥か汚れだが、ここでは昼のひかりである。車体の一部が昼のひかりを反射している。それは見る角度によって見え方が違うようなきらきらした反射ではなく、やや鈍くてしかしながら割に目立つ昼のひかりだろう。泥や汚れもやはり付いていそうだ。「こびりつく」というイレギュラーな語の選びが、むしろひかりの反射をリアルに掬いとる。

 筆者の印象だと、まず車体の反射する光があってそれをリアルに表現するために作者が「こびりつく」という言葉を探したのではない。「こびりつく」ひかりという言葉が先に頭の中に浮かんで来て、一首の中に入れると、言葉がひとりでに昼の光のリアルさを作り出していた。根拠はないけど、そんな感じがするのである。結句で昼のひかりは泡のようでもあるという。昼が闌けたときのひかりの感じだろう。やや気だるいような体の感覚までが伝わってくるように思われる。自転車という素材、そのはじくひかりを歌いながら、ある気分を掬っており、そういう意味で抒情的であるといえる。

 

 『水は襤褸に』は生沼の二十七歳での第一歌集である。物に、言葉に適度に付きつつ、二〇代の青年の気分をうまく掬いあげた歌が多いように思う。

 

連結器から入りくる風の香に六月の器官さわだちはじむ

わしわしと動いていたる喉仏ああ飲食も晩秋に入る

赤がまだ耀う赤であったころチェルネンコという人の死にたり

奇妙なる明るさからまず始まらむこの眼前の連翹空間

 

 列車の「連結器」はすこしレトロな言葉だろう。やや古いタイプの車両を想像するが、その古さゆえ外の風が入って来るのである。「器官さわだちはじむ」には、季節の風に反応する体の感覚がある。チェルネンコ(元ソ連共産党書記長)の歌も面白い。個人的な事だが、生沼は筆者と同学年である。チェルネンコの死は、まだ幼いころのものだったはずであり、葬儀の映像は赤の広場の鮮烈な赤とともに記憶の中にある。ここにあるのはむろん政治体制への賛否ではなく、すでに行き詰まりつつあったソ連をごく短い間代表したチェルネンコというひとりの人間への、淡い追憶であろう。今よりは、ちょっとだけ赤が耀いていたのである。「チェルネンコという人」の「という」の、対象との距離の取り方もいいと思う。

 

ほそき声がわれを揺さぶる夕食に啜りていたるうすきポタージュ

 

 ほそき声は女性の声だろう。女声は主体の繊細な気持ちを揺さぶる。揺れながら啜るポタージュの味は如何なるものだったのか。「ほそき声」でしか女性は描かれないが、その女性のことを思う主体の自意識はなんだか愛しい。

 

 

 しかし、90年代の青春は、いつしか遠くへ行ってしまった。

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