鬼神もあはれと思はむ桜花愛づとは人の目には見えねど

                                  本居宣長『枕の山』

 

 

 「鬼神も桜の花を見ると、あわれと思うのであろう。桜を愛でるその姿は、私たち人の目にはみえないけれど。」通釈すると、だいたいこのような感じだろうか。桜の花には、人だけではなく異形の鬼さえも感動させるだけの力があるのだという。桜の美しさ、その力を鬼さえも‥‥というある種の誇張表現で表わしているといえよう。

 

 現代においては、「人類みんなの願い」「地球上生き物すべての希望」などのフレーズが良く使われ、この宣長の表現は幾分陳腐化しているようにも思われる。しかし、ここにあるのは愛や平和というような普遍的な価値ではなく、一本の桜の美である。隣りに住む人も、異形の鬼も、そのこころまでを貫くのが「桜の花の美」であるところがやはり、独自であろう。かつての実際の桜の一枝の記憶が、それぞれの読者のなかに立ち上がっており、それは「鬼神もあはれと思はむ」という想像にすみやかに辿り着く。「桜花愛づとは人の目には見えねど」と言いつつ、遥か遠くの異形の鬼が、桜を見上げている様子がありありと脳裏に立ち上がると思う。「鬼神もあはれと思はむ」という観念と、眼前の桜の美が隣接している。

 

 なお、本歌の「鬼神」は古今集仮名序の「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武人の心をも慰むるは歌なり」という和歌の効用を説く部分を踏まえているという指摘がある。

 

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