「食べるべし大豆、納豆、豆もやし」独り暮らしの夫にメールす

松尾祥子『シュプール』(2012)

 

金山寺味噌というものをつい最近まで知らなくて、お呼ばれした先でご馳走になったとき、こんなに好みの味のものを今まで知らなかったとは、とびっくりした。他にも色々と美味しいものを出していただいたのに、金山寺味噌を口にした途端目の色が変わって妖怪・味噌舐めと化してしまい、不作法なくらい延々と舐め続けた結果、帰りの電車で強烈な咽喉の渇きに苦しむことになった。

松尾祥子もたぶん、豆製品が好きなのだろう。夫の単身赴任に際して作られたこの歌は、「大豆、納豆、豆もやし」の豆・三連続にすごいインパクトがある。単に味が好き、というより、豆の力を信頼している、というニュアンスだろうか。

さらにページをめくると、

 

  味噌カツに仕事の鬱を吹き飛ばす本場の味はいまだ知らねど

  千メートル泳ぎきたりて昼食に味噌煮込みうどん定食を食む

  鶉豆大豆青豆酢漬けにし瓶に保存す夫を訪ふたび

 

といった歌が出てきて、思わず笑ってしまう。さらに歌集の後半には、

 

  家買うと決心したりドーナツも豆も輪ゴムも0に見えくる

 

もあって、人生の転換期にもまたさりげなく「豆」が登場しているのが、何とも味わい深い。一点に集中するこの感じは、松尾と同じくコスモス/桟橋に参加する奥村晃作に通じるものがある。もちろん、味噌カツで元気を付けたのは「仕事の鬱」が溜まっていたせいであり、「大豆、納豆、豆もやし」「鶉豆大豆青豆」の豆攻撃は、初めての独り暮らしで食生活が偏りがちであろう夫を心配するゆえの行動である、という点を見逃してはならない。

ピンポイントで豆の話ばかりしすぎてしまったが、松尾祥子の歌の良さは、いかなるときもユーモアを忘れないところにあると思う。

 

  つむじよりこの世に生れてつむじより老いてゆくらし 帽子をかむる

  かみあはぬ議論平行線なれば机かついで帰りたくなる

  分別のない人増えて分別のある犬増えて日本恐ろし

 

歌集には、成長する娘たち、単身赴任の夫、老いてゆく両親、職場のことなど、人生の重みを感じさせるテーマが目白押しだが、そんな中にも、ふっと肩の力の抜けたユーモアが混じっているのが魅力的だ。

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