吉野 裕之


冬天に残る柘榴のひとつのみ瑕瑾だらけといふが愛しも

安永蕗子『緋の鳥』(1997年)

 

徐々にして水涸れてゆく湖の藍(あゐ)のほとりの誰が晩年ぞ

一頭の馬の伏し目の憂愁に阿蘇草国の野焼きがけぶる

忘却もまた力なれ三宅坂下るあたりの見知らぬ柳

男来て釣れば釣らるる魚一尾沖の岩場の石濡るるなり

青銅の首を掲げて一条の蛇が水湖のまなかをわたる

 

たくましいといったら変かもしれないが、安永蕗子の作品を読んでいると、ふとそんなことばが浮かんでくる。

彼女の作品は、いわゆる定型を保ちながら、しかし確かに現代の韻律である。現代の作家なのだから当然といえば当然なのだが、そこにはしなやかな工夫がある。とくに四句から結句にかけての表現に、彼女の意志があるのではないかと思うのだ。

 

冬天に残る柘榴のひとつのみ瑕瑾だらけといふが愛しも

 

柘榴は不思議な植物だ。初夏に鮮紅色の花を咲かせ、果実は、秋に熟すと硬い外皮が裂け、赤く透明な多汁性の果肉のたくさんの粒が現れる。果肉は食べることができるが、種があり、面倒といえば面倒だ。いずれも一般的な植物に比べると異形の印象だが、庭木などで栽培されることが多いようで、町なかでもよく見かける。わが家の近くでも、何軒かのお宅に柘榴が植えられており、毎年、花や実を楽しませてもらっている。

路地にはみ出した枝がなかなかいい。初夏のさわやかな日差しのなかにちょっと顔を出したような花。秋の濃い日差しのなかに膨らんだ実。そして、冬になっても残っている傷だらけの、半分枯れてしまったような実。柘榴は、ずいぶん長い時間、私を楽しませてくれる。

「冬天に残る柘榴のひとつのみ」。柘榴は「冬天」に残っているのだ。それは位置のことであるとともに、柘榴への敬意なのだろう。「瑕瑾だらけといふが愛しも」。「瑕瑾」の語が鮮やかだ。「冬天」とも響きあい、一首を彼女のものにしている。実景だろう。しかし、おそらく「いま・ここ」の景ではない。彼女の思いが、じっくりと醸成した景なのだ。だからこそ、「冬天」と「瑕瑾」が美しく響きあい、一首の抽象度が高まるのだと思う。抽象とは、意志に支えられた行為である。