前田康子『黄あやめの頃』(2011年)
「俺」と「川風」の取りあわせを味わいたい。「俺」は現代日本語のくだけた話し言葉、かたや「川風」は万葉集の時代から歌に出てくる言葉だ。
川風の寒き長谷を嘆きつつ君があるくに似る人も逢へや 山前王「万葉集 巻3」
川風の涼しくもあるか打ち寄する波とともにや秋は立つらむ 紀貫之「古今集」
川風すなわち川に吹く風は、そこに立つ人に昔からいろいろとものを思わせてきた。川辺に立って思いにふけると、おのずとそこに吹いているのが川風なのである。前田康子の一首は、短歌的なその約束事のなかに、「俺はなあ」とつぶやく<わたし>を持ってきた。
<「俺はなあ」/つぶやいてみる/川風に/力が沸いて/くる気がして>と5・7・5・7・6音に切って、一首三十音。「川風に」がどこに係ると取るかによって、読みは二つに分かれる。「つぶやいてみる」に係ると読めば、歌意は、川風に向かって<わたし>は「俺はなあ」とつぶやいてみる、力が沸いてくる気がして、となる。「沸いてくる」に係ると読めば、<わたし>は「俺はなあ」とつぶやいてみる、こうして川風のなかに立っていると力が沸いてくる気がして、となる。二番目の読みは「川風に」の「に」に意味を持たせすぎるだろうか。一番目の読みは、「川風に」「力が沸いてくる気がして」と倒置句が連続するのでややもたつくが、むしろそれが作者の狙いかもしれない。「くる気がして」の結句6音も、ぎくしゃく感を深める。
一首の読みどころは、<わたし>が女性であることだ。男性作者による<わたし>が「俺はなあ」とつぶやいてもおもしろくない。一読して私も「俺はなあ」とつぶやいてみたくなった。いや、大声でいってみたくなった。どんなに気持ちがいいだろう。思えば昔から、男の子たちは「僕」「俺」が使えるのに、女の子は「あたし」しか使えないのがつまらなかった。
女性作者にとって、一人称の問題は大きい。短歌と無縁なうちは「つまらない」で済んでいた私も、短歌を作りだしてすぐ一人称の壁に突き当たった。「われ」などという時代がかったことばを、素面で口にしたり書いたりしろというのか。「あり得ない」が、当時四十代だった入門者の実感だ。「わたし」なら抵抗ないが、3音ある。1音でも短い語を使いたい短歌において、一人称くらいは2音に抑えたい。もしも私が男だったら、悩むことなく「僕」「俺」を使っていただろう。
<わたし>の気分によって「われ」「僕」「俺」を使いわけられるのだから、一人称に関して男性作者は得である。しかし、みんなが使えば歌語になるのが、短歌のことばというものだ。女性作者たちが盛んに使ったので、歌のなかの「僕」「俺」は女性の一人称として定着しました、といえる日が近い将来やってこないだろうか。
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