吉野 裕之


芝の上(え)のわが椅子倒し昨夜またさびしく八ヶ岳颪ゆきしか

上野久雄『冬の旅』(2001年)

 

キュッと鳴る玩具を咬みてみずからをしずむるすべを仔犬は覚ゆ

ねむりゆく闇に思えば亡骸にまわりつづけていし扇風機

この庭は大雨、甲斐駒岳(かいこまだけ)は雪、われはぐっすり眠りし昨夜

二つずつ幾種(いくいろ)のパン購いて乗りこみきたり桜(はな)に行こうか

燃えさかる炎(ひ)を掴むためみずからを火となす齢(よわい)すぎたりしかな(*「掴」は旧字体)

 

『冬の旅』は、著者70歳前後の作品を収めた、上野久雄の5冊目の歌集。若いときから短歌に関わってきたにもかかわらず、歌集の数はけっして多くはない。ゆっくりとゆっくりと、自らの歩みを確かめながら歌集を編んできたのだろう。作品を読みながら、そう思う。

生。それは生活の「生」ではなく、人生の「生」。そんな「生」が一首を支えている作品たち。むろん、生活はある。しかしそこに身を置きながら、常にそれを相対化する視線をもっているのだろう。だから無駄がなく、すっきりと一首が立っているのだと思う。

 

芝の上(え)のわが椅子倒し昨夜またさびしく八ヶ岳颪ゆきしか

 

「芝の上(え)のわが椅子」。たった9音で、いきなり読者を鷲掴みにする。具体的には「芝」と「椅子」しか描かれていない。にもかかわらず、「わが」によって詩が生まれていく。うまいなあ、と思う。短歌は、たったこれだけの情報量で、というと軽くなるが、読者を鷲掴みにできるのだ。

「昨夜また」ということは、よくあることなのだ。朝起きたら、芝の上の椅子がまた倒れている。上野は、「八ヶ岳颪」と一緒に生きている。むろん「八ヶ岳颪」だけではない。土地の、さまざまなもの/ことと一緒に生きている。「さびしく」。それは、こうしたもの/ことを静かに肯定する意志だろう。意志というと大袈裟かもしれない。あるいは、心のありよう、というと漠然としすぎているだろうか。

上野の作品はけっして修辞が表に出てくることはない。しかし、一首を読み終えたとき、ずっしりとやってくる。恐ろしいと思う。