交番の裏窓に見ゆる食器洗剤の黄色の液は残り少なし

髙栁サダヱ『狐日和』(2009年)

 

街の風景をスナップ風に切りとった歌だ。<わたし>が交番の裏手を通りかかると、食器洗剤のボトルが窓ガラス越しに見える。たぶんそこに流しがあるのだろう。ボトルの中の黄色い液は、残りが少ない。

 

だから何なの? 交番の洗剤が残り少ないって、それがどうしたの? と思う人は、短歌を読みなれていない人だ。少なくとも、短歌を読みはじめた当時の私だったら、この歌を見てそう思っただろう。比喩も飛躍もない。機知やユーモアがあるわけでもない。あたりまえのことを、あたりまえにいっただけの歌ではないか。ところが、いろいろな歌を読むうちに、比喩や飛躍や機知を使わずふつうのことばを並べた歌の中にこそ、じつはいい歌があるのだ、ということに気づくようになる。「ふつうのことばを並べた」といま書いたが、これは「一見並べたようにみえる」ということであって、高等技術に属するのである。

 

<交番の/裏窓に見ゆる食器/洗剤の/黄色の液は/残り少なし>と5・11・5・7・7音に切って、一首三十五音。二句を大胆にふくらませる。

 

「交番の裏窓」の「裏窓」にまず技がある。交番や理髪店などを表通りから覗く歌は多いが、作者はここへ建物の裏側を持ってくる。交番の裏窓のことなんて人はふつう考えもしないが、いわれれば確かに交番にもそういう窓はあるだろう。「裏窓」という言葉から、ヒッチコックの名作映画「裏窓」を思う人もいるかもしれない。ちょっとミステリアスで不穏な響き。「交番の裏窓」と「交番の窓辺」では、かもしだす雰囲気がまるで違う。交番の洗剤の減り具合などという、誰も気にしない物に目を止めた時点で歌は半分出来、「裏窓」という語を見つけた時点で残りの半分が出来たといえるだろう。歌集の「著者経歴」に<昭和33~39年 「アララギ」所属>とあり、あるいはここで鍛えられた眼力修辞力かもしれない。

 

四句は「黄色い液」と口語的にいかず、「黄色き液」ともせず、「黄色の液」とする。「黄色き液」と「黄色の液」は、ニュアンスが微妙に違う。また、三句以下を<洗剤は黄色の液の残り少なし>とする手もあるが、それは採らない。初句から結句まで、ことばが過不足なく機能している。

 

描かれる風景が何の変哲もないことであればあるほど、それを定型の中で簡潔にいわれると、そこから何かが立ちあがってくる。短歌を読みなれるとは、その何かを感じ取れるようになることだ。べつだん特別な能力ではない。数多く歌を読めば、誰でもそうなる。歌のなかで「黄色の液の残り少なし」と断定されると、少しばかり誇張していえば、そこに何か世界の真理があるような、啓示を与えられたような気がしてくるのだ。「黄色の液」が、ただの洗剤の液ではないものに感じられてくる。地上のいろんな場所で、じわじわと減ってゆく黄色の液。短歌を読むよろこびは、ありふれた風景の後ろから別の風景が見えてくる、その不思議な感覚を味わうことにある。

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