吉野 裕之


冬日てる街あゆみ来て思ひがけず吾が視野のなかに黒き貨車(くわしや)あり

佐藤佐太郎「黄炎抄」(合著『新風十人』所収)(1940年)

 

『新風十人』という合同歌集があるのは知っていた。昭和15年、八雲書林から刊行された、筏井嘉一、加藤将之、五島美代子、斎藤史、佐藤佐太郎、館山一子、常見千香夫、坪野哲久、福田栄一、前川佐美雄による一冊である。恥ずかしい話だが、「十人」を正確には知らなかったし、一冊にそれほど関心があったわけでもなかった。しかし、ある勉強会で石川書房の文庫版(1998年)をテキストに『新風十人』を読もうということになり、私ははじめてこの一冊を読んだのだった。やはり仲間はありがたい。十数年前のことである。

 

白雲のやまず動ける西空に月円(まど)かにてかたむきにけり

あらはなる秋の光に茎のびて曼珠沙華(まんじゅしゃげ)咲くただひとつにて

このごろのとりとめもなき彼の岡にかつて銀杏(いちやう)が黄にかがやきぬ

電車にて酒店加六(かろく)に行きしかどそれより後は泥のごとしも

いろいろの塗料の缶(くわん)を積みあげし一角(いつかく)が見ゆ橋わたるとき

わが部屋の机に肘(ひぢ)つきてをりしとき潮(うしお)のごとく来にし夜かも

市営墓地に事務のごとくに葬(はふり)せしかつてのことも今はしづけし

 

とくに佐藤佐太郎の作品に感動した。衝撃を受けた、といったほうがいい。そのとき、何を語り合ったかは覚えていない。いまあらためて読み直してみると、密度といったことばが浮かんでくる。おそらく、描写の密度ということだと思う。あるいは、認識の密度。

 

冬日てる街あゆみ来て思ひがけず吾が視野のなかに黒き貨車(くわしや)あり

 

描写の密度、あるいは認識の密度。それを支えるためには、自身を確かに立たせておくことが必要だろう。そのありように、衝撃を受けたのだったかもしれない。

「5・7・6・8・7」。ゆったりと大きなリズム。密度を支えるための意志が、一首全体を貫いている。初句、二句の「5・7」は、同時に「7・5」あるいは「5・2・5」を抱えている。しなやかだと思う。

「黒き貨車(くわしや)あり」。詠まれている対象は、「黒き貨車」だけである。「冬日てる街あゆみ来て思ひがけず吾が視野のなかに」は自身のことである。「冬日てる街あゆみ来て」。過去の時間の自身のこと。「思ひがけず」。対象と出会った意外性。つまり、いまの時間の自身のこと。「視野のなかに」。自身の存在の提示。そう、一首は「黒き貨車」と対峙する自身を詠んでいるのだ。

20代後半の若者の、時代における誇りのありようの確かな具体である。