江戸 雪


日々われらやさしき嘘と嘘にてもよきやさしさにまみれて過ぐす

今野寿美『星刈り』(1983年)

この「われら」はどんなひとたちだろう。
「まみれて」だから、「嘘」はひとつやふたつではなく、あちこちにころがっている感じ。
となると、恋人と私ではなく、あるグループのなかのことのようにも読める。
それに、恋人と二人の関係なら、「まみれて」というほどの嘘は必要ない。むしろ伝えることは、本当のことのほうがはるかに多いのではないか。

まず「やさしき嘘と嘘にてもよきやさしさ」という感受性におどろく。
いわれてみればその通り、そうして自分もひとのなかに暮らしている。しかし言葉にするのは難しい。まして、このように韻律にみごとにのせて言いおおせるなんて。

もうすこし考えてみる。
「やさしき嘘」というのは意味もよくわかるし、そんな嘘をつくのはわりに難しくない。
では、「嘘にてもよきやさしさ」とは?
わたしは、前の「やさしき嘘」をうけて、つかれた嘘を嘘としてうけとめ、相手を大切にありがたくおもうやさしさ、だと読んだ。これはなかなか難しい。
騙されたふりをするやさしさ。あるいは、自分のためについてくれた嘘だとおもえる広さ。

嘘にまみれるのではなく、やさしさにまみれているのだ。