魚村 晋太郎


暁(あけ)までをひとり起きゐてかく道に佇む幾度 生は闌(た)けつつ

森山晴美『グレコの唄』(1998年)

俳句には、夜の秋、という季語がある。
晩夏のころ、暑い一日が終わって夜になるとすこし涼しくなり、秋が近いことを感じさせる。その感じを言う。
秋の夜、とは意味が違い、夏の季語である。

人間はふつう、夜になると寝る。寝だめ、をすることは難しい。
人間は一生に何度くらい徹夜をするのだろう。
一度もしないひともいれば、数え切れないほどするひともいるだろうが、多くのひとの場合、年に一回か二回、そして年齢をかさねるほど、そういう機会は減ってゆく。
連作で、一首の前には次のような歌がある。
   暑ければ夜道に出でて他人(ひと)の部屋を仰ぐごと見る木洩れ窓の灯
主人公が明け方近くまで起きていたのは、暑くて寝苦しかったこともあるかも知れない。
調べものや書きものをしていたせうかも知れない。でも、そういったこととは別に、安らかに眠りにつくことのできない理由が、主人公の胸のうちにあったのだろう。

ふだんベッドにはいっている時間。ふだんバーのカウンターに腰掛けている時間。そんな時間に、家の前のなんでもない通りに佇んだりすると、ふとふだんとは違った目で自分を見つめるたりすることがある。
自分を見つめ直すために旅に出る、なんてこともあるが、実のところ本当に自分自身を見つめるのは、こんな時間、こんな場所なのかも知れない。

闌ける、とは、長ける、とも書くが、高や丈と同源の言葉。あることに長じていることもさすが、まっさかりになる、とか、熟しきって末に近づく、という意味だ。
自分の人生が、あつい季節の盛りにあることを主人公は感じている。そして、盛りというのはその季節の終りを意味していることも、また、しみじみと感じるのである。