前田 康子


鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい

木下龍也『つむじ風、ここにあります』(2013)

 

コンビニや携帯電話のような便利なものができるとすぐにそれを批判的に詠もうとする動きが見られるが、そのような図式も何かステロタイプに見えて来るので、私は逆に親和的に詠むのも面白いと思っている。

 

この一首を読んだ時、回転寿司屋で働いている友人の話を思い出した。回転寿司のシャリは機械で握られていてその上にわさびと切り身を載せるのが仕事という。人の手で握られたおにぎりや寿司が気持ち悪くて食べられないという人もこの頃は多いから回転寿司は清潔でいいと彼女は言う。

 

木下龍也のこの一首の「あれ」はコンビニに売られている鮭のおにぎりだろう。ご飯の中に鮭が入っているのではなく「鮭の死を米で包んで」と逆転させて言っている。おにぎりが機械で作られ出てくるところを見ているようだ。鮭のフレークを「鮭の死」といったり、「あれ」とだけ表しているところも面白い。

 

生前は無名であった鶏がからあげクンとして蘇る

 

これもコンビニの商品の歌。「からあげクン」は何のひねりもない名前で、憶えやすく頼みやすい名前だ。迷わずにぱっと買ってぱっと食べられるということ、コンビニはそれが大切である。「生前は」というちょっとオーバーな表現で、唐揚げになる前の鶏の姿が頭に浮かんでくる。食べることは殺生であるというような重いことを言っている短歌ではないのに、楽しい名前の「からあげクン」がすごく虚しいものに響いてくる。手軽に食べられるものに潜む、現代のカラクリのようなものが見えてくるのだ。

 

「所有する下着の上位三枚を鞄に詰めている午前二時」、こういう歌にも素直に共感する。現代生活の隅の方にある虚しさやおかしさをうまく拾ってくる歌人だ。