入りがたの峰の夕日にみがかれてこほれる山の雪ぞひかれる

伏見院『伏見院御集』

 

京極派の冬の歌からもう一首。

伏見院は妃の永福門院と並んで京極派和歌の代表的「体現者」(阿尾あすか『伏見院』笠間書院コレクション日本歌人選)である。

夕日に照り輝く雪を詠んだ歌は、意外に少ないと阿尾あすかは『伏見院』に言う。漢詩や和歌においては、夕日は赤、その光に同じ赤をもって輝かすのが通例。紅梅、紅葉が定番と言ったところらしい。このように雪(白)を照り輝かすのは、京極派和歌においてだった。固定美観にとらわれることなく実際の景色に刺激を得ているのは、京極派ならではであるという。

さらにこの歌には、もう一つの補助線がある。『源氏物語』宇治十帖、浮舟と匂宮の逢瀬の場面に、「雪の降り積れるに、……山は鏡をかけたる様に、きらきらと夕日に輝きたるに……」とある。物語の自然描写を叙景歌に引きいれるのも京極派に珍しいことではなかったようだ。

景色は分かりやすい。峰に沈む夕日の一瞬の輝きに、雪に凍った山が反照するということだろう。現代の私どもからするといかにも作った感じの歌に見えるが、理知的な清新さと読みとれるところも京極派の和歌ならでは美点であろう。

 

入相の鐘の音さへうづもれて雪しづかなる夕暮れの庭  (伏見院御集)

 

同じように冬の雪の夕暮れの歌である。雪が降り積もり、何もかも覆いつくした夕暮の庭である。どこの寺か近くに晩鐘が鳴る。しかし、一面を覆う雪は、その鐘の音さえ埋もれているかのように聞こえるということだろう。深閑とした夕暮れの庭にしづかに響く鐘の音――。

どちらの歌も冬の京都の夕暮どきの雪景色の映像を頭の中に運んでくる。そして、穏やかな心持になってくる。