前田康子


残し置くものに未練はあらざれどうすきガラスのこの醤油差し

永井陽子『小さなヴァイオリンが欲しくて』(2000)

 

『小さなヴァイオリンが欲しくて』は平成12年に急逝した永井陽子の遺歌集で、死後9ヵ月後に出された。初読したときに「体温計」や「ホチキス」、「暦」などの物が歌のモチーフとして胸のなかにいつまでも残った。

 

タンポポはいづこにぞ咲くゆめのなかに体温計を置き忘れたる

わたくしがコトリと命絶つたなら風よその日を暦より消せ

ひとの死の後片付けをした部屋にホチキスの針などが残らむ

 

一首目の歌は「死」を意識した歌ではないかもしれない。しかし置き忘れて取りに行けない夢の世界が、あの世とこの世を思わせる。私には、作者がタンポポがぼんやりと咲いているあの世から、この世を見ていてそこに置き忘れられた体温計があるように思える。二首目ははっきりと「命絶つたなら」と詠んだ哀しい歌だ。「コトリと」に静かに消えていこうとする思いがある。生まれた日と死ぬ日、人間は二つの日付を必ず持つのだとこの歌であらためて思う。

三首目の歌はとても衝撃的だ。「後片付け」それは他人が来て遺体を片付けるということだ。そして遺体の片付けられたあとには生きている時間に使っていたホッチキスの小さな針が残っているだろうとリアルな現場を詠んでいる。作者の死であれば自分の死後のことをこんな風に冷静に考えていることがさらにこの歌を哀しくさせる。この歌を読んでいるうちに、死後の永井陽子の部屋に読む者が行っている気さえ起こるのだ。「ホチキスの針」という捨てられてしまいそうな小さな物を持ってきたところにも儚さを感じる。

 

冒頭の歌にもどりこれらの歌とあわせて考えると、自分が死ぬことや死後のことを考えたときに永井陽子の心の中には「物」がまず浮かんでいるのだろうかと思う。両親も亡くなり一人で生きていた永井を引きとめようとするもっと他のものはなかったのだろうか。冒頭の「ガラスの醤油差し」は愛用して食卓で使っていたものかもしれない。高価なものではなく、何気なく日常を支えてくれるものが家の中にはある。それにふっと永井は気づいたのだろう。

 

木のしづくこころのしづくしたしたと背骨をつたふこのさびしさは

あの世にて母が洗濯機をまはす音きこゆるよひとりベランダに立てば

 

一首目、背骨を冷たく伝う雫のような寂しさ、それでも生きなければならないぎりぎりの中にいる作者が見える。二首目、亡くなった母があの世でもいそいそと洗濯機をまわしている。その音は作者の心を安心させるような音だったかもしれない。人が生きて行くことを支えてくれるものは何なのだろうとあらためて考えさせられる。