一ノ関忠人


昨日まで莫妄想を入れおきしへなむし袋今破りてむ

太田道灌『名将言行録』(1860年代)

*莫妄想に「まくもうざう」のルビ。

 

太田道灌(1432~1486年)は、室町時代中期の武将。関東管領家である扇谷(おうぎがやつ)上杉定正の執事。江戸城を築いて居城とした。山内(やまのうち)上杉家の内紛を鎮圧したが、かえって扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定方の讒言により、主君定正によって謀殺された。兵法に長じ、和漢の学問や和歌にもすぐれた名武将であったようだ。

道灌には、和歌に目覚める際の「山吹」の古歌のエピソードがあって、これがよく知られている。

若き道灌がにわか雨にあい、農家に蓑を借りようとしたところ、少女が山吹の一枝を差し出したので怒った。後にそれが、「七重八重花は咲けども山吹の実の(みの=蓑)一つだになきぞ悲しき」という古歌にちなんだ振る舞いであることを知る。それが道灌に和歌を学ばせるきっかけになったのだという。

太田道灌は、主君扇谷定正の糟谷館に招かれ、入浴後に湯殿から出たところを襲われたという。死に際に「当方滅亡」と言い残したといい、その語のとおり扇谷上杉家は滅亡していく。

新渡戸稲造『武士道』には、湯殿で襲われた際、道灌が和歌を好むことを知っている刺客は、「かかる時さこそ命の惜しからめ」と上句を詠む。道灌は、致命傷に少しもひるまず「かねて無き身と思ひ知らずば」と下句を付けたと言い、これが道灌の辞世とも伝わる。実際には、この歌は道灌若き日の作歌であるらしいが、こうした覚悟を常に抱いていたということでもあろう。

今日の一首に揚げたこの歌は、『名将言行録』に道灌の辞世として載るものである。『辞世の歌』(笠間書院コレクション日本歌人選)に松村雄二が指摘するとおり、私には、こちらの方が道灌らしいように思えるので、ここに紹介することにした。どうだろう。

「莫妄想」は、妄想することなかれという禅家の語であり、「妄想」と同じ意味である。「へなむし袋」は、語義不明だが、「へなへな」とか、「からむし」とかにかかわるへなへなした糞袋とでも言ったところか。昨日まで数々の妄想を溜めこんできたこの私のろくでもない肉体を、今こそ破り捨ててしまおう。どこか俗っぽさがただようが、それがかえって豪胆な道灌にふさわしいのではないだろうか。

私が利用する小田急小田原線の最寄駅から相模川の鉄橋を越して3駅先が伊勢原である。大山登山を目指すバスが出る駅として知られているが、大山へむかう道筋を東名高速の橋梁をくぐったあたりに太田道灌の首塚がある。ここが扇谷上杉氏の糟谷館、つまり太田道灌が殺害された地にほかならない。

小学校4年になる時に私は東京の練馬から神奈川県厚木市に転居した。そこはたいそうな田舎に感じた。それでも少しでもこの地と人に馴れるために父親は休みになると周辺の史跡に私を連れて歩いた。最初は市内に限られていたが、次第に周辺地域に拡大されていった。太田道灌の首塚は、そうした父子の史跡巡りの最後だったかもしれない。父もまだ若く、自転車を連ねて、この糟谷館跡を訪れた。史蹟の説明板はあったが、雑草の茂るに任せた場所であったが、湯殿で道灌を殺害するという卑劣な手段に憤りと共になまなましいイメージが湧き上ってきたことを今も覚えている。「夏草や兵どもの夢の跡」という芭蕉の句を親しいものに感じたのは、父の教示があったのだろう。

伊勢原市では、役者やタレントを呼んで道灌祭りを開催している。毎年10月の第一土、日だから、この週末には太田道灌に扮装した役者が馬上に笑顔をふりまいていることと思われる。