一ノ関忠人


たましひの見えざるところ崩れゐてをのれ黴臭くにほふと思ふ

倉田千代子『風の森まで』(1996年)

 

倉田千代子という歌人が生きて歌い、そして死んだことを私は忘れない。

倉田千代子は、奈良女子大文学部国文科に入学するとともに「人」短歌会に入会する。そこで短歌を作りはじめたばかりの鈴木正博や私どもと知り合い、ほぼ同世代だったので、親しく切磋琢磨をすることになる。倉田は、なかなか厳しい同行者であった。批評の厳しさだけでなく、生き方も作歌にもストイックな求心性があった。

 

つかのま触れあひてゐる肩先の火傷のごとき火照りは告げず

会はぬゆゑ鋭く輝きてわが裡にありしとおもふそのおもかげは

 

学生時代の相聞歌である。恋の行為はじつにつつましい。しかしその恋う力は強大だ。まさに初心(うぶ)な恋なのだが、倉田の場合は、その恋う力が自虐的にはたらく。直接相手に向かうのではなく自分に向かうのだ。「火傷のごとき火照り」は告げないし、会わないからこそ鋭く輝く恋である。注目してほしいのは、「会へぬ」ではない、「会はぬ」であるということだ。これが倉田の文学の特質である。厳しく自分に向かう。

 

現し身を削ぎてうたはむ歌はずば絆断たるるわれらと思ふ

じりじりと焦がるる心耐へゐしが刹那鋭くわが名呼ばれつ

夕空を裂きてひとすぢかがやける飛行機雲わが傷のごとしも

忘れたきひとつおもざし灰色の枝からみあふ森の奥処に

 

なんとも苦しげな歌である。没後、妹の手によって遺歌集『風の森まで』が纏められた。その歌を読んでいると一首一首に彼女の心がぎゅうぎゅうに圧縮されているようで苦しくなってくる。どうしてこんなに自分を傷めつけなければならなかったのだろうか。その印象は、彼女の死後何度かこの歌集を読んだけれども、変わろうとしない。

もう少し自由なところへ出ていっていい。ずっとそう思っていた。こうした歌が発表された当時も、そう言った覚えがある。しかし、そう言えばそう言うほど彼女は心の殻を固く閉ざして行ったように記憶している。苦しい恋、苦しい生活をしていたのだろう。

 

少年の氷(ひ)のごとく清きまなざしを恋ひつつ行かむ風の森まで

一人来てわれは思へり潤みつつ闇にひかりの充ちてゐしこと

 

それでもこうした清らかな、光りを求めたような歌がある。ほっとするような気持ちになるのだが、とりわけ歌集の題にもなった「風の森まで」は、この時の旅に同行していただけに胸をうたれる。

風の森は、大和葛城の峠である。風の森峠、そこには風の神を祀る小さな祠が建つ。寒風に逆らって、頬を赤くした口元を引き締めて金剛・葛城の山麓につづく大和の西の山の辺の道を歩く彼女の姿を、昨日のことのように思い出すのである。

このストイックの果てに、彼女はどのような自由を獲得しただろうか、その兆しが見えはじめていた彼女に病魔が襲った。悪性リンパ腫、7ヶ月の闘病の末に1995年10月17日、彼女は35歳の若さで亡くなった。残念であったろう。

 

くるしみてもの食ふ我ぞ梅まぶす酸ゆき白飯時かけて食む

やすやすと喉通りゆく冷奴うまきものなほあるを喜ぶ

 

闘病中の歌である。抗癌剤の副作用に苦しんでいたのだろう。今日の一首は、この病気を検査で知った頃のものであろうか。相変わらず自虐のおもむきであるが、決して暗くこもったものではない。病む自分を客観的にみている作者がいる。いかにも倉田らしい歌だ。

倉田が亡くなって十年後、私も同じ悪性リンパ腫と診断される。それもステージⅣ、ダメージも各所にあった。同様に7ヶ月の闘病、過酷な化学療法に命だけは救われた。10年は医学の進歩の時間だったのだろうか。彼女は亡くなり、私は生き延びた。この違いはなんだったのだろう。その後、再発入院の末、発病から9年になるが、痛みをかかえながらもなんとか生きている。

私は彼女に負い目のような思いを持っている。彼女が大学院の入試を受ける年、私はちょうど国学院の折口博士記念古代研究所の電話番をしていた。試験の前に研究所に寄って行くように誘ってあった。緊張をほどいて、余裕をもって受験して欲しかった。落ち着いて受ければ不合格などありえぬ。彼女の実力は信頼できたから、ふつうの状態であれば間違いなく受かる。そう思って誘っておいたのだが、それが裏目に出てしまった。

受験時間を確かめておけばよかったのだ。お茶を出して、話をして彼女は落ち着いた様子で部屋を出て行った。上手くいけばいいなと彼女を送り出した私は考えていた。ものの十分もたたなかったろう。ドアをノックして彼女が蒼白の表情に帰ってきた。

えっ、どうした。

彼女は試験時間を間違えていた。すでに入室もできない時間だった。つまり受験できなかったのだ。慌てて、私が知る限りの伝手を頼ったが、受験時間だけはどうにもならなかった。彼女には、そういうところがあった。世俗とはどこかずれたところが。ああ。

昼から新宿で飲み、中央線で故郷茅野へ帰る彼女を送った。私が、お茶でもと誘わなければ……この失態は、彼女に死なれて、いっそう深い負い目として、償うことのできぬ負い目としていまだに忘れられないのである。

そして彼女の短歌の価値、ここに紹介した数首を読むだけでも、その歌の力を知ることができるだろう。記憶に残してほしい歌人の一人である。

この1995年から翌年までにわれわれは鈴木正博を失い、倉田千代子を亡くし、さらに今泉重子を欠くことになる。その間に私は第一歌集を出すが、なんとも辛く忘れがたい月日であった。どうして私の信頼している者ばかりが逝ってしまうのか。そんなことを歎いた記憶は今なおなまなましい。