前田康子


草花に目をとめ歩く余生とは秋の空気をふかく吸うこと

小高賢『秋の茱萸坂』(2014)

 

2013年2月に、突然逝ってしまった小高賢の第九歌集である。「茱萸坂」とは「ぐみざか」と読み、千代田区永田町の国会議事堂の南側にある広い緩やかな坂のことらしい。ここには、小高は反原発のデモに参加することで訪れていたようだ。とても美しいタイトルだ。

この一首、「余生」という言葉を特に自分に対して使う場合、寂しさがあるが、この歌の「余生」にはゆったりと残りの人生を楽しむ余裕のようなものが感じられる。わき目もふらず働いてきた頃と違って、ゆっくりと草花を見ながら、呼吸を深く吸い季節を感じながら生きる喜びが、素直に詠まれている。

 

わが顔もいずれは花に囲まれるできたら赤き花を多目に

かすかなる生のへこみはもどりたり夜更けのわれをはげます柊二

 

一首目のような自分の死を意識した歌もある。柩に横たわり花に囲まれている自分をリアルに想像しているのは、さまざまな人の訃報を受けたり葬儀に出ることが多くなったせいでもあるだろう。「赤き花を多目に」は最期くらいは華やかに明るく見送ってほしいということだろうか。

また二首目は夜に宮柊二の歌を読みながら、歌によってはげまされている心の動きを詠んでいる。「生のへこみはもどりたり」というところがいい。弾力のある「生」が思い浮かぶ。

 

うち深く傷つき凹み籠りたり上から目線と妻にいわれて

 

これは結構凹んでいる一首。「上から目線」とは相手より高みに立ってものをいうことを表わす今風な表現だ。「傷つき凹み籠りたり」と重ねて表現しているところを見ると、よっぽどその妻の一言が胸に刺さったのだろう。一番ちかくにいて理解してくれていると思っている相手も時には辛辣な言葉をぴしゃりと言い放つ。妻の側から読むとよくわかる一首であり、そんなに凹んでいる夫の姿にも少し同情してしまう。

 

歳月は振り返るたびふくらみて嘘もまじればいい味になる

 

不思議な感覚の歌だ。上の句はどういうことだろう。自分の生きてきた月日は振り返るたびに、ぼんやりとした輪郭に膨らむということだろうか。あいまいな記憶の中にちょっとした嘘もまじるとちょうどいい味になるということか。「いい味になる」といいながらどこかほろ苦いものをこの一首に感じた。

 

編集部より:小高賢歌集『秋の茱萸坂』はこちら↓

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