一ノ関忠人


遊びたるひとつ水雷艦長に幼きこゑをのこし、まばゆし

小中英之『わがからんどりえ』(1979年)

 

小中英之さんにはさんざんに世話になりながら、その恩を返すことなく亡くなられてしまった。2001(平成13)年11月21日、外出しようとした小中さんは玄関先に倒れたまま、この世を去った。虚心性心不全、64歳。4年前に父、そして3月に母を見送って一人暮らしであったため2日の間発見されなかったという。27日の神奈川県の大和斎場で行われた葬儀に参列したものの、私はやりきれないような気持ちがしばらく続いた。

私の住まいと小中さんの住み暮らしていた大和は、そう離れていない。私にすこしでも積極性があったら、お訪ねして話を伺うことができたはずなのに、生来の引っ込み思案のせいか、とうとう生前に伺うことはなかった。幾度か痛飲のお伴をしたことがあっただけに、しらふで短歌の話をしてみたかった。酒を飲み過ぎると記憶が跳んでしまうことがままあったので、一度はゆったりちびりちびりと考えていただけに残念でならない。

小中英之の短歌は、私などが言うまでもなく美しい歌が揃っている。

 

昼顔のかなた炎(も)えつつ神神の領たりし日といづれかぐはし 『わがからんどりえ』

氷片にふるるがごとくめざめたり患(や)むこと神にえらばれたるや   同

身辺をととのへゆかな春なれば手紙ひとたば草上に燃す         同

蛍田てふ駅に降りたち一分の間にみたざる虹とあひたり        『翼鏡』

鶏ねむる村の東西南北にぽあーんぽあーんと桃の花見ゆ         同

せせらぎを踏むはいづれの日とならむ麻薬微量を身に斂(おさ)めたり 『過客』

救急車くるまでのことおぼろなりゆゑなく李賀を想ひをりしか      同

ふるさとに帰ることなく人生の秋の演歌をわれたのしまず        同

わが死後をすこし愉しくあるために蛍狩りつつ息を絶えたし       同

 

小中の父は海軍士官、戦後は海上保安庁職員となる。転居が多く、生まれは舞鶴だが、横須賀、久里浜、稚内、平取、小樽、釧路と移り、中学・高校時代を江差に過ごした。その江差への愛着がもっとも深いという。江差高校を卒業後、若年性高血圧症で半年病臥、以後結核・狭心症・心筋梗塞・脳溢血・腎不全などさまざまな病気が小中を苦しめた。そのせいか、どうか不遇がつきまとう。

敬愛する劇作家久保栄の自裁。その衝撃にアパートにこもりがちになり、文化学院を中退。やがて劇団「ぶどうの会」の研究生となり、人形劇の人形遣いの仕事に進み、NHKテレビの『チロリン村とクルミの木』の「クル子ちゃん」を担当するが、結核を発病。そして詩人の安東次男に師事して内弟子になる。第一歌集の解説を安東が書くのだが、なかなか書いてもらえず二年半待つことになる。さらに親しい歌人小野茂樹をタクシー事故に喪う。その直前まで共に酒を飲んでいただけに小中の衝撃は大きかった。

私が小中さんを知るのは、『翼鏡』を出版した1981(昭和56)年のことだ。私は短歌を作りはじめて三年、「人」誌上に短歌だけではなく文章を書きはじめていた。『翼鏡』の書評を命じたのは成瀬有であった。若手の会員それぞれに歌集をあてがって、自分の責任で評価せよということであった。歌だけでなく一首評からはじまって、歌集評、やがて評論、研究へと散文も鍛えられた。

『翼鏡』は、すばらしい歌集であった。鬱の日、乱調と「後記」には書きながら、緻密な文体、古典的ともいえる美意識には凄味さえ感じた。引用した二首がそれをよく示しているだろう。病の意識は常に持ちながら、ゆとりさえ感じる様式性も備えていた。

稚拙な文章に、そんな意味合いのことを書きながら、四季や自然をめぐるその古典的な美意識について、つい「日本浪曼派」の語を用いて説明しようとした。古典、ロマンと言えば私には「日本浪曼派」が身近だったからだが、それが小中さんの逆鱗に触れた。

「日本浪曼派」からの離脱は、戦後短歌の至上命題である。それはもとより承知していたが、小中の歌はそのよき脱構築と評価したかったのだが、意に添わなかったに違いない。こいつに会わせろと言っていると小中さんと親しかった成瀬から、怒ってるぞと微笑含みながら威された。

お会いしたのは、それを聞いて間もない、「人」会員の歌集の出版記念会であったか。詳しい記憶は失われているが、砂子屋書房の田村雅之さんと連れだってお見えになった小中さんに初めてお会いした。

本当にお怒りだったのか、記憶はあいまいだ。この日からお会いすれば深夜までの痛飲が倣いとなったから、怒りはともあれ、私の存在を認めてくださったのだと思う。もともと成瀬をはじめ「人」の同人と小中は親しい関係にあったから、その輪の中へ私も加えてもらったことになる。「人」解散後、「白鳥」草創期には、親身に協力を惜しまず、最初の一年、作品評を小中さんが受け持ってくださったことは忘れられない。いわゆる歌壇に導いてくださったのも小中さんであった。

小中さんの歌は、いわば名歌目白押しだが、今日はすこし変わったところを紹介しておこう。小中にはめずらしい子ども時代の追想である。「水雷艦長」は、もう忘れられた子どもの遊び。戦中から昭和40年代に入った頃まで男の子の遊びだったというが、ちょうど昭和40年代に10歳になった私は知らない。聞いたことはあるし、ルールも知っているのは、ちょっと上の世代では遊ばれていたからだろう。得意げに語る兄世代の男子から聞いた記憶はあるが、実際に遊んだことはない。要はじゃんけんと同じ三すくみルールの勝負だ。①戦艦と②駆逐艦、それに③水雷艇――①は②に勝、②は③に勝、③は①に勝。それを二組に分かれて争う。①戦艦が負、沈没したら戦闘終了。帽子の被り方で役割を見分けた。①はつばを前方に、②は横に、③は後ろに。単純だが、なかなか奥深い、飽きない遊びだろう。

小中にはめずらしい歌だが、「まばゆし」が、くせもの。子ども時代への憧憬か、勿論その気分が大きいが、自分がその遊びの輪の中にいると言うより、輪に入りきれないからこその「まばゆし」ではなかったか。子どもの頃から異邦人のような小中ではなかっただろうか。

 

私は晩年の小中に頼まれたことがある。「西行坂」を探して、地図を買ってきてくれと。既に旅には出られなかったのだろうか。西行が訪れたという伝承を持つ西行坂がいくつか存在する。旧中山道の恵那から御嵩町へ抜ける峠と山梨県南巨摩郡の坂の所在を国土地理院発行の五万分の一の地形図を付けて、さらに山形にもあるけれど確認できていないと報告した記憶がある。その後それがどうなったのか。作品化するつもりがあったのかどうか。秩父事件の作品化と共に楽しみにしていたが、小中にとっても突然の死はそれを完成する時を奪ってしまったのであった。

明日が、小中さんの命日。13年になる。