島木赤彦『馬鈴薯の花』(1913年)
「新潮」2014年9月号をぱらぱらめくっていると森内俊雄の短編が目に入った。この人の小説には自伝的なものがあって、時折興味本位にページを捲ることがある。巻末の執筆者情報には36年生とあるから、昭和11年、今年78歳。戦後の学生時代(早稲田の露文クラス)を回顧する現在が、知的情報をまじえて意外なほどに詳しく描かれている。この人の小説には、必ずちょっとした情事が点描される。それがアクセントのようになっているのだが、この作品にも最後に別府の一夜が明かされる。
と読書を楽しんだが、注目したのは題であった。
「たまさかの人のかたちにあらはれて」――これが森内俊雄の新作短編の題名である。
短歌の上句である。誰の歌だろう。
実は、その興味に引かれて私はこの小説を読みはじめたのだった。短歌に詳しい人なら作者とこの一首を言い当てることができるかもしれない。しかし不勉強な私はこの歌を知らなかった。しかし、人間を表現して「たまさかに人のかたちにあらはれ」たという哲学的な把握には、なるほどという驚きがあった。
この歌、実は島木赤彦初期の作品である。森内の短編では、腰、足の痛みに温水プールでの水中歩行を医師から勧められ、3カ月の「水中教室」に通う。その教室に一緒に通った老女と老人が、実は夫婦であったことに最後に気づく。「二人は夫婦だった。とうとう最後まで見抜けなかったのは、わたしの及ばぬところだったが、さり気ないかれらに心打たれた。水のごとく淡きにいたった夫婦仲の姿は、さっぱりとして、媼翁(おうなおきな)の木目込人形のように輪郭がくっきりしていた。」そうして、この歌を思い出したのである。
「万葉のこころと調べそのままに思い出した。」「感傷過多のそしりがあろうけれど、上の句五・七・五たまさかに人のかたちにあらはれて、は仏教的発想の域を超えて、下の句七・七に続いている。ことに、二人睦びぬ、と受けられたところに率直な感動を覚える。」
島木赤彦のこの歌は、『馬鈴薯の花』(中村憲吉との共著)「明治四十四年」の項に収められている。この時代、赤彦は広丘小学校の校長を務めていた。赤彦30代半ばである。
眼のまへにその人はありとこしへに消えてゆくべきその人はあり
いち日の尊きことをつくづくと心に沁みて手をとりにけり
うゐきやうの花の畑に宵はやく眠れる星を二人見にけり
こうした歌にまじって今日のこの一首もある。赤彦の広丘村の生活は、妻子を離れて孤独を感ずる生活であったが、同時に同じ小学校に勤める中原静子との交情の日々でもあった。それが、このように歌われた。永遠の仲ではないことが、恋情を哲学的、仏教的発想によって、人間の運命と捉えることにつながるのだろう。上句の発想と下句の感傷が、中年に入りかけた赤彦のものであろう。
この一首を探るために『島木赤彦全歌集』(岩波書店)の初句索引を引くと、「たまさかに」を初句に置いた作品が8首あった。これは多いだろう。赤彦の好みの語と考えられる。次のような歌がある。
たまさかに吾がまゐりこしおくつきの松葉牡丹の花さかりなり 『氷魚』
たまさかに帰れる父のかたはらを寂しと思ふか子どもは眠る 同
たまさかに二階にのぼり来る妻にものうち語る正月真昼 同
たまさかに里より上り来る馬あり谷の下遠く嘶(いななき)き聞ゆ 『柿蔭集』
たまさかに吾を離れて妻子らは茶をのみ合へよ心休めに 同
一首目は「左千夫先生三周忌」であるから「たまさかに」はなるほどと思う。最後の歌は、「三月十六日」、つまり1926(大正15)年3月27日に赤彦は亡くなるから、その10日ほど前、この歌の後には「三月二十一日」の「我が家の犬はいづこにゆきぬらむ今宵も思ひいでて眠れる」があるばかり。赤彦が最初「猫」と歌い「ちがった、ちがった。猫じゃない。犬だわ」と言って笑った一首だけである。時には私の病床から離れて、妻よ子らよ茶でも飲み合ってくつろいでくれ。精いっぱいの家族への心遣いであったから、ここでも「たまさかに」は生きているだろう。