さびしくてわが眼に蜻蛉(とんぼ)の尾がこぼす水の環はどこまでもひろがる

日置俊次『ノートル・ダムの椅子』(2005年)

空中でたがいの尾を曲げて輪のかたちをつくる、あの蜻蛉の交尾のさまは印象的だ。
交尾の前に、雄は自分の体を曲げて尾の先にある生殖器から、腹の前のほうにある副性器に精子をうつしておく。
そして雄は尾の先にある特殊な鉤で、雌の首のところをつかまえる。
つかまえられた雌は尾を曲げて、雄の腹の副性器から精子をうけとる。

産卵の様子は種類によってちがうが、アキアカネなどは雄と雌がつながったまま雌が尾の先で水面をたたくようにして産卵をする。
産卵する雌のちかくで、雄がホバリングして見守る種類もある。
交尾後の雌を別の雄がつかまえることもあるらしく、これらは自分の遺伝子を確実にのこすための習性なのだろう。
昆虫や小動物の場合、その交尾のさまにけなげな印象があるのは、みじかい命を惜しんで次の世代につなぎ、自身の遺伝子を残そうという本能の姿であるからにちがいない。

ひんやりとした秋のひかりのなかで、水に卵を産む蜻蛉。
そのちいさな波紋に見入る主人公のさびしさも、きっと性にかかわるものだ。
にんげんが異性をもとめるこころには、生殖と関わりのない様様な感情がからみついている。
水面をたたく、蜻蛉の無心なさまを見ていると、主人公のさびしさはひとしおあふれそうになる。

泣いている訳ではないが、主人公の眼は自らをあわれむような気持ちでひんやり潤んでいる。
水に広がる波紋を、わが眼にこぼす、といっているところ。そしてその水の環がどこまでもひろがるようだ、という結句から、秋の日のさびしさの澄んだ体感が伝わってくる。

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